お馴染みの目がチカチカするようなビビッドカラーの某CDショップの袋を大袈裟なくらい両腕でしっかりと抱え、息を切らして家に帰りつく。ただいまの言葉も言わず踵をこすり合わせるようにして乱暴に靴を脱ぎ捨てバタバタと騒がしく階段を駆け上がり、自室のドアを外の世界を遮断するようにぴったりと閉じて……緊張の糸が緩んだようにふっと力が抜けて、床にぺたりと座り込む。
新譜を買った日の私はいつだってこんな調子だ。その日1日をどこか落ち着きなくそわそわしながら過ごし、学校が終わると右耳から左耳へと見事に授業内容をダダ零しにしながらふわふわとした頭でまっすぐCDショップに向かう。
その時頭に流れるのは“フルドライブ”。この曲のMVのようにアクロバティックな技を決めたり壁を飛び越えたりしながらショップヘと走っている訳では無いが、虎視眈々と目を光らせながら板書よりも熱心に時計を眺め、終鈴が鳴るのと同時に学校を飛び出さんばかりの前傾姿勢はあながちこの曲の雰囲気と違っていないと思う。
それだけ発売を楽しみにしていながら、発売日に受け取ったCDを畏まってじっくり眺めているうちに開封もせず1週間が経ってしまったり、「この曲をもっといろんな人に知って欲しい」と思う気持ちと「自分だけの世界で楽しんでいたい」と思う気持ち、どちらも共に胸の中にあるのに、試しに天秤にかけてみると後者の方に腕が下がってしまって……結果、友人に「この曲は本当に素晴らしいから是非聴いて欲しい」と語彙の限りを尽くして散々プレゼンした挙句「貸して」と頼まれるとグズグズしてしまうような非常に迷惑かつ面倒な独占欲が表れ始めたりして。 私のCDに対する姿勢は、例えるなら「人生初カノジョ」と言ったところだろうか。
残念ながら女の私にカノジョなんて居らず、かといって彼氏がいるわけでもないので、その感覚を知っている方がいらっしゃるなら是非この感覚を共有した後、バカヤロー惚気てんじゃねぇと肩を力強く殴りたいところだ。
……話を元に戻すと、私にとってCDとはそれほど大きな意味を持つ存在である。それは、音源だけならアーティストの気持ちと音楽のみで構成されているような錯覚にさえ陥ってしまいがちなものが、1枚の円盤に形を変えただけで更にその背景に立つたくさんの人々の魂がこもっているという実感をより強く感じられるものであるからだ。手軽に音源をダウンロードして楽しむことができるこの現代で、私がわざわざ茄だるような暑さの炎天の下を、凍えるような北風の中を、少し早足で駆け抜けてショップに足を運びCDを購入してしまうのは、それを全身で受け止める時のなんとも言えないワクワクとした感覚が好きで好きで堪らないから、そして近くのコンビニで受け取ったり直接配達されるよりも「自分で手間かけてる」感が円盤の価値にプラスされるようでちょっと気持ちよかったりするから、なのかもしれない。
ただ、この1枚のCD……今年の2月に購入したこのアルバムに関しては、いつもと違う点がいくつかあった。それはそのアルバムに対する思いが他と違う、というのもそうだが、それを手にした私の状態に大きく基づいていた。その事については、もう少し後で詳しくお話しすることにする。
さて、ここで話は冒頭へと戻る。いつもの通りぺたりと床に座り込んだ後、なんだか立ち上がって電灯の紐を引くのも億劫で、私はぼんやりとカーテンの隙間から見える空を眺めていた。CDショップを出た直後にパラパラと冷たい雫で私を襲った雨はなんとか止んだようだったが、外は酷く薄暗くくすんで、真っ暗な部屋の中に静かに差し込む光さえもが少し気だるそうで、同じように晴天とはいえない空の下撮影された装丁のジャケット写真とそっくりだった。
ビニール袋からずるりと滑って顔を覗かせたそのアルバムをそっと持ち上げる。身を切るような2月の風の中、雨から庇ってコートの下に隠していたそれはそれでも少しひんやりとした冷たさを指先に伝え、そこで初めて自分が帰ってからコートすら脱いでいなかったことに気が付き、私は芋虫の脱皮のようにずるりずるりとその場に脱ぎ捨てたのだった。それほど、私はそのアルバムに意識を取られていた。
いつもなら装丁からじっくりと見つめ、ケースを開いてから歌詞カード、それからやっとこさ円盤へと滑る視線は何処か落ち着きなく泳いでしまって集中できない。結局集中するのは諦めて、らしくなくいきなり円盤をプレーヤーにセットしイヤホンを耳の奥に差し込んだ。
冷たいフローリングの上に堅苦しく正座してプレーヤーのボタンを操作する指が、震えた。
この日のために、このアルバムのために生きてきたのだ。決して大袈裟な表現ではなく、そのアルバムは日々を過ごす私の心の支えだった。それを手に入れてしまったその先に自分が何をもってして生きていくことになるのか知らないままで、少し怖くもあった。
私はたった1枚のアルバムを前に酷く緊張し、怯えていたのだ。
電気も点けない暗い2月の午後6時、CDがプレーヤーの中で勢いよく回転するシュルシュルという音は何故だか妙に耳の奥で大きく反響して、周りの世界を私の耳から消し去り、切り離した。彼らの――私が愛してやまないKANA-BOONの3rd アルバム『Origin』は、今思えば円盤がプレーヤーの中で滑り始めたその瞬間から、始まっていたのだった。
不意に訪れたほんの一瞬の沈黙、そしてその直後に鼓膜に飛び込んでくる力強いドラム、今この瞬間からアルバムが始まっていくことを象徴するようなギターのフィードバック――1曲目、“オープンワールド”。背筋がぞくりとするほどの衝撃に思わず身震いしてしまうほど、そのイントロはこのアルバムが如何に今の彼らの最大限の力の賜物であるかを雄弁に語った。
自然とじわりと歌詞カードの文字が滲んで、私は目を大きく見開いてキッと歌詞を睨めつける。五感の全てでこのアルバムを受け止めたい、たった一音の音でさえ聴き逃したくない。そんな思いに反してどんどんと視界は歪んでポタポタとフローリングにシミを作り、私はぎゅっと目を瞑って両手でイヤホンを耳の中に押し込んだ。
曲が移り変わる度、彼らのサウンドは表情をガラリと変える。シングルとして発売された楽曲が耳に滑り込めばそれを初めて聴いた時の感動を鮮明に蘇らせ、このアルバムで初めて耳にした楽曲は今この瞬間のこんなにも惨めな私を鏡のように映し出す。6曲目の“インディファレンス”のサビでVo.谷口鮪の伸びやかな裏声が響く頃には既に慣れない正座で足の感覚は無かったが、それでも頑として姿勢を崩すことはせずにきつく唇を噛んで音楽に耳を澄ませた。
ぼろぼろと涙を零しながら顔を歪めていた私は、ラスト曲“Origin”のアウトロの余韻が空気に溶けて消える頃には、小さく身体を丸めて蹲っていた。
この瞬間に全てを奪われても構わない。ただ今は、彼らの音楽の中で漂っていたい……ただそれだけを願いながら、喉の奥で声を殺して泣いた。
完全に痺れきって感覚のない足を両手でしっかりと抱え、小さく背中を丸めて声もなく泣きじゃくる私の姿は、胎の中の赤ん坊のようだっただろう。
泣き声は、何処かに忘れ去ってしまった。へその緒のようにプレーヤーと私を繋ぐイヤホンを通して届く音楽が、私の嗚咽の代わりのようにただ何度も響いていた。
さて、ここで少しだけ私自身について説明させて欲しい。少し前まで、私は「いいこ」な14歳のオコサマに過ぎなかったのだ。
2月上旬の何でもない――本当に何でもない普通の土曜日。とても些細で、同時にとても決定的な出来事によって……私は崩れた。
暗く沈んだ顔をマフラーでぐるぐる巻きにして隠し、友人を避けて一日をやり過ごしてホッとしては夜になる度に次に迎える朝を思って泣き出す。暗闇の中で一人になると四方八方からたくさんの音のない声に責め立てられるような感覚を覚え、暗闇が怖くなって眠れない夜を過ごしていた私が「適応障害」という精神的な病気だという診断結果をもらうのはこの時からもっと先の話だ。
自分がこの半生のうちに信じていた、揺るがないはずだったアイデンティティが崩れた状態で過ごす日々は、大袈裟ではなく地獄だった。
昔から、「いいこ」だと言われて育った。だから余計に沢山の人を退けて迷惑ばかりかける「いいこ」でない今の自分に対する嫌悪感は募り続け、軽はずみな気持ちではなく死ぬことばかり考えていた。視線はいつだって自分の影を見つめ続け、この影もろとも消えてしまえばいいのにと考えながら自分で自分の影を目一杯踏み付けるようにして足早に、独りぼっちで歩いていた。
周囲への興味が薄れ、もう何もやりたくないと脱力していた私が挙げられるたった一つの生きる理由……というか、「これを知らずに死んでしまうのは少し惜しい気がする」と思ったもの。それが私の大好きなバンド、KANA-BOONの3rdアルバム、『Origin』の存在だった。カレンダーに印をつけては発売日を待ち、どうせ その後死んでしまうのなら貯金なんてしても仕方ないのだとどこか投げやりな気持ちも手伝い、思い切って初回限定A盤・B盤の両方を購入した。1月に発売されていたシングル、“ランアンドラン”の先行シリアルナンバーで既に5月のワンマンツアーヘの参戦は決定していたが、「私5月まで生きてると思う?」なんて大真面目な顔で母に尋ねる程には自分の生きる未来への実感が湧いていなかった。
感情は、消した。声を出さずに泣く方法を学んでしまってからは、声を出して泣く方法も忘れてしまった。何故自分が泣いているのかもわからなくなった。ただ原因も手放してしまうほど苦しむ自分を可哀想に思いたい、その一心で泣いていた私が久しぶりにその他の理由で泣いたのが、忘れもしない2月17日――そう、『Origin』の発売日だ。
軽快な勢いと共にインディーズ時代の頃を思わせるような、ただ純粋に音楽が楽しくて仕方なかった日々を歌い上げ、《誰でもない君だけのやり方で/君の目映る世界を開け》と、この曲の後に展開していくアルバムの持つ沢山のKANA-BOONの「未知」へと導くような“オープンワールド”。そこからがらりと雰囲気を変え、土砂降りの雨を思わせるような力強いギターをはじめとしてなんとも言えない色気を感じさせるサウンドの“机上、綴る、思想”。KANA-BOONの真骨頂とも言える四つ打ちに爽やかな初夏を思い出させる軽快な歌詞をのせた“なんでもねだり”……。
明るく柔らかい関西弁で無邪気に笑う普段の彼らから一体どうやったらこんな楽曲が生まれるのだ、と呆然としてしまうほどの自分自身への隠れた苛立ちを込めた“anger in the mind”の攻撃的なギターの刺々しさはかえってむっとたちこめるような色気を醸し、彼らが笑顔の下で抱えていた怒りの渦の荒々しさに頭がクラクラする。
ピック弾きが主なKANA-BOONの楽曲には珍しいベースの指弾きで“talking”のイントロから引き込まれたかと思えば、シティポップ調の“グッドバイ”で《サヨナラじゃなくてグッドバイ》とあくまで別れを柔らかく締め……くるくると表情を変え、どんどんと彼らのoriginに酔わされる。嗚咽をこらえて音楽に耳を傾けながらも、彼らの持つ表情に酔っては呆気に取られて涙を忘れる瞬間すらあった。
そしてラスト前にして目が回る程の陶酔から引き戻し、一気に私の目に映る歌詞カードの文字をにじませたのが“スタンドバイミー”だった。
発売前からのインタビューで伝えられていた“スタンドバイミー”、いや、このアルバム『Origin』の制作秘話と楽曲があまりにも滑らかに融合され、静かに心に滑り込んできた。
2ndアルバム『TIME』に代表されるような力強い四つ打ちに乗せたサウンドと、中毒性のある繰り返す歌詞。それこそがKANA-BOONがブレイクしたきっかけでもあり、四つ打ちロックを牽引した彼らが……そう、言うなればフルドライブする力となった持ち味である。
しかし『TIME』の発売後、約3ヶ月に1枚のペースでシングルをリリースする彼らは、ファンの私たちがそれを待ち望み喜ぶ裏で「これが自分達のやりたい音楽なのか」と悩んでいたという。
ただ純粋に音楽を楽しんでいた昔より遥かに多くの人々が彼らの音楽を待っている。ニーズを気にして生まれるサウンドがある事に覚える違和感の中でアルバムの制作は進み、1度メンバー同士で向き合い、話し合った後、“原点”に――音を鳴らす、ただそれだけがどうしようもなく楽しかった日々を取り戻すために――“スタンドバイミー”は生まれたのだ。
序盤から《なにもかも綺麗に見えていた/あの頃の僕はもうここにはいないと/心が泣いているのが聞こえる》と語るVo.谷口鮪の声はあまりにも明るく、柔らかく伸びやかで、悲しい。
音楽を純粋に楽しんでいた自分が生んでいた音楽から、今の自分はどんどん離れていってしまう。もう1度、あの頃のように、一緒に……。
KANA-BOONと彼らの音楽について歌っていると知った上でも、私にはどうしてもそれが「いいこ」だと褒められ育った幼い自分と、地面に這い蹲ってもがく今の自分とを歌っているように思えて仕方なかった。はじめは一本だった道が何処かでほんの僅かにずれてしまっただけで、時間が経つにつれその距離は大きく開く。気がついて手を伸ばした頃には既にその手は「私」の鼻先を掠めることすらかなわない……自分でもうまく言い表せないような気持ちを見透かされて言い当てられたようなこの曲は、あまりに深く、鋭く胸を刺して……その傷口から温かい涙を零させた。
《もう一度、一緒に歌おう》――私は昔の自分を取り戻したいの? 本当の、今の私はこんなにも惨めなのに?
《僕はやれる、君はやれる》――できる? 私に?
《飛び出せ世界》――
言葉はもう続かなかった。とっぷりと陽の落ちた冷える夜の中、真っ暗な部屋で蹲っていたって、どうしても視線の先が眩しくて仕方ない。そんな気がした。
貴方は、“スタンドバイミー”にどんなイメージを当てはめるだろう。私には、確かに燦々と光の降り注ぐ「未来」が見えた。目に飛び込む光はあまりに眩しくてそのまま開けていられないほどなのに、イメージの中でその視線の先、蹲る私のまっすぐ前を並走する4人の後ろ姿の影が離れない。
そこで不意に、ある曲の言莱が蘇るのだ。4曲目、“ランアンドラン”……。
《君を過去に置き去りにはしない》
私がこうして殻に閉じこもっているうちにも、彼らは決して足を止める事はなく4人揃って走り続けるのだ。
だから、だから……。
置き去りにされないように、もう1度走り出さないと。昔のような速度じゃなくたっていい。走るほどの元気もないのなら、ゆっくり準備運動からでもいい。……貴方達を未来で待たせるわけには、いかない。
視界が一気に開けた気がした。ハッと顔を上げた先でカーテンの隙間から見えた空は、さっきの雨が嘘のように綺麗に晴れ渡って真冬の星を冷たく震わせていた。
痺れて爪先から冷えた足で立ち上がって窓際へと歩いていく。
涙が逆にコンタクトレンズのような役割を果たしたのか、視界は今までにないほどにクリアで透き通っていて、――
綺麗だった。
その時の景色を今も私は忘れられずにいるのだ。思えば、自分の影ばかり見つめて俯いて歩いていた当時、随分久しぶりに上を見上げて空の広さを見た気がする。
赤ん坊が生まれる瞬間、母親と同時に子供も形容し難いほどの苦しみを覚えて生まれるのだという話を聞いたことがあるだろうか。初めて吸う息に、初めて見る光に……眩しい、新しい世界で小さな赤ん坊はむせ返るほどの衝動を覚えながら必死に泣き声を上げるのだ。
『Origin』 を聴きながら小さく蹲って泣いたあの日見た空は確かに新しく、眩しく、広かった。自分の爪先ばかり睨んで自分はなんて可哀想なのだと嘆いてばかりの日々の中で久しぶりに空を見上げたあの日、間違いなく私はもう1度「生まれた」のだと思っている。
彼らの音楽がなかったら……今、私はどんな風に生きていただろうか。いや、生きているだろうか? その答えは誰も知ることは無い。でもただひとつ言えるのは、私は「生まれない」まま、自分の殻の中で膝を抱え続けたに違いないということだ。その先に何があったか……正直、想像もしたくない。
実際、新しく「生まれた」私がこのあとすぐに走り出せたわけではない。何度も何度も落ちてはずるりずるりと這い上り、今だって時に不安定にバランスを崩しながら……まるで幼子がよちよち歩きをするように危なっかしく拙くも、こんなふうに KANA-BOON への思いを綴っている。
4 人で支え合い今年で10年になる彼らの友情を羨ましがり、そしてほんの少しだけ妬んでいたあの頃が今では少し懐かしくて、可笑しい。彼らのような仲間が自分にもいればなぁ、と思ってばかりで定員 1 名の狭い殻から抜け出す努力をしていなかった私は、あの日から今を生きる私とバトンタッチして足を止めている。
「人は見た目じゃない」そう笑って自分たちのルックスを少し自虐的にネタにして、軽快な関西弁でゆるりと MC したかと思えばその直後には研ぎ澄まされたサウンドが――彼らの音楽があって。そんな彼らが、私にはどんなに甘いルックスをした他のバンドよりも格好よく見えて仕方ないのだ。自信を持って言える。彼らは間違えようもなく、カッコイイ。
「俺らは音楽に救われたから。だから辛いことがあった時には俺らの音楽を思い出してください」
『Origin』に収録された楽曲、そして初回限定A盤に収録・再録されたインディーズ時代の楽曲を引き連れ、全速カで駆け抜けた日々を経て原点へと帰りついた彼らが行ったワンマンツアー、 「KANA-BOONの格付けされるバンドマンツアー2016」の MCでそう語るフロントマンの彼のように「音楽に救われた」なんてかっこいい事、私にはとても言えない。
でも私がどんなにボロボロになって倒れても、その側にはいつも音楽が――KANA-BOON の鳴らす音楽があった。これから先どんなことがあったとしても、私は KANA-BOON がいるならどんな境遇にだって立ち向かえる。根拠がなくたって、これだけは自信を持って言い切れるのだ。
「ブーンっていうネットスラング流行ったじゃないですか、そのブーンから……」 「流行ってへんわ、お前の中だけのブームや」
「ローマ字表記にして間にハイフン入れたらKAT-TUNみたいになると思って」 「そしたら……こんな風に仕上がりました」
バンド名の由来からなんだかゆるくて、おどけて首を竦めてみせるその姿は確かに某アイドルグループにそっくり!というわけにはいかないけれど。
でも私の……いや、私を含むたくさんのファンの、「私たち」のヒーロー。
空は、飛ばない(それは勿論、昨年行われた日本武道館公演でのGt.古賀隼斗のフライアウェイは除いて)。でも私たちの、オンリーワンのヒーローは楽器とその声で、私たちをいつでも、何度でも救ってくれるのだ。
息切れがして、脇腹が痛んで。もう歩けない、そう思ったのなら何度でも立ち止まっていい。その度にまた歩き出せばいい。
彼らは決して立ち止まらない。それでも誰か一人が先陣を切って前を突っ走るわけでもなく、ただ4人並んで走り続けるのだ。あなたがその背中を見て、もう1度走り出す勇気を持てるように。
彼らは《君を過去に置き去りにはしない》のだから。
世界を飛び出すには、言葉では言い表せないほどの痛みが伴う。それでも――
《飛び出せ世界 もう一度》この言葉を胸に抱きしめて、緩やかな助走から力強く自分の殻を蹴飛ばして身一つで飛び出した新しい世界は……本当に美しくて眩しいのだと伝えておきたい。4色のヒーローが楽器を片手に彼らの空を自在に飛び回る、目も眩むようなその世界は。
この作品は、第2回音楽文 ONGAKU-BUN大賞で入賞した沖村瑠奈さん(15歳)による作品です。
KANA-BOON 空は飛ばないヒーローの原点の話
2016.11.10 18:00