秋のうた - ELLEGARDENに会いたい

涼しくなってきたから、エルレガーデンの『The Autumn Song』を聴いている。秋が来るたびに聴いて、これだよなあ、と溜息をつきたいような気持になるのが毎年の恒例だ。秋は昔から寂しいんだけれど、この曲のおかげ(せい)でその感じは年々深まっている気がする。それこそ、イヤホンでそれを聴きながら夜道を歩いていてふと空を見上げたら、薄い雲のかかった黄色の月が高く浮かんでいて、泣き出しそうになるところでつい笑ってしまったくらいに。
なんでだろうか。エルレはどの曲も秋みたいな感じがする。楽しかった夏が終わるときの空気が、底深くずっと流れている感じがする。
わたしがエルレを知ったのは休止から何年も経った後だったから、その知らせをリアルタイムで聞いた人たちの寂しさは想像もつかないが、大好きなバンドの休止なんて考えただけで怖いから、彼らは本当に、本当につらかっただろうなと思う。当時を知らないわたしでさえ、そのことを思うと暗い気持ちになる。
だけれど、それよりも、うらやましい。
エルレが新譜を出すとか、ツアーをするとか、そういう知らせもリアルタイムで知ることができて、発売日にCDを買いに行ったりライブに足を運んだりできた人たちのことが、本当にうらやましい。わたしは情報として知っているけれど、思い出は持っていないから。どうして今、ライブやってないんだろう。めちゃくちゃめちゃくちゃ行きたいのに。こんなあてのない気持ちばかり残して、どこ行っちゃったんだよ、と、腹立たしいようなもどかしいような思いで、CD封入のライブのフライヤーを見つめたりしていた。
あてのない気持ち、つまり、エルレガーデンにしか託せない渇きがある。べつにそのはけ口をずっと探していたという訳ではない。そういうものが自分の中にあることを、わたしは彼らに出会って知ったのだ。『The Autumn Song』を初めて聴いたときの、胸がずたずたになるような衝撃をよく覚えている。手のつけようがない寂しさ、切実さが流れ込んできて痛ましかった。なんでこんなにつらいことばかり歌うんだろう、もういいよと、すがるような気持ちにもなった。それは最初の一回だけでなく、彼らの音楽を聴くといつも頭をもたげてきて疼きはじめる。どうしようもなくて、どこにもやり場がなくて、立ち止まって呻いてしまうような類の渇きだった。
ライブに行きたい。一度でいいから行ってみたい。そこでしか解消されないような気が、ずっと、痛いほどしていた。
そんなとき、ライブDVD『ELEVEN FIRE CRACKERS TOUR 06-07 ~AFTER PARTY』を観た。エルレのライブ映像を観るのは初めてだった。
無数に突き上げられた腕のつくる大波のむこうに、四人がいる。汗をボタボタ落としながら、うなる楽器と一体となって暴れまわっている。幾度も画面に映るオーディエンスはみんな、満面でばかみたいにまっすぐに笑っていて、同じ顔をした細美は何度も「すげえ」「ありがとう」を繰り返した。目が離せなかった。聴くたびわたしの中の渇きをむきだしにしてきた音楽はそのままなのに、ここではあまりにも楽しくて熱くて、格好いい。音も、光も、笑顔も、想像していた以上に輝かしかった。これだ、きっとこれだ、そんな予感が大きく高まっていった終盤、最後の曲が始まる前に、細美は胸に手を当てて言った。
「生まれて初めてだよ、ここの穴が埋まった気持ちがするのは。生まれて初めてだよ。」
泣いているような顔で言った。数万人の声がそれを受け止めていた。
ああ、やっぱりそうなんだ。わたしだけじゃなかったんだ。みんなここに来たかったんだ。そう思った。
『金星』のイントロが流れ出したとき、画面に映った客席の中で、ひとりの女性が涙をこぼしていた。

今はもう ねぇ 今はもう
ねぇ この夜が終わる頃 僕らも消えていく
そう思えば 君にとって 大事なことなんて
いくつもないと思うんだ

この歌詞がこれほど深く響いたことはない。僕らがありのままの僕らでいられる夜が、そこにはあった。

エルレがずっと歌ってきた、心の穴。似たようなものをわたしも知らないうちに持っていたのかもしれない。だから、『The Autumn Song』の暴力的なほどの切なさに惹かれたのだろう。

Friends are alright
There’s nothing so sad
And the food is good today
It looks like things are going right
But I feel I’m all alone

Tell me how can I be such a stupid shit
No way I can’t even find my way home
You said today is not the same as yesterday
One thing I miss at the center of my heart

〈対訳〉
友達はみんな元気だし
これといって悲しいこともない
今日はご飯もおいしいよ
全て順調に見えるんだけど
僕はどうしようもない孤独に襲われる

どうして僕はこんなクソッタレになっちまったんだ
ああ もう家に帰る道さえわからない
君は「もう昨日までとは違うのよ」と言う
ハートの真ん中に一つだけ足りないんだ

欠けていたいろんなものが全部埋まってもなお、一つだけ足りないんだという。じゃあ、その「一つ」は、どうしたら埋まるんだろう、全然わからない。そのさまよい自体が歌になっている。このほかにも、喪失、別れ、今ここにないものへの強烈な焦がれや恋しさが焼き付いているようなエルレの曲たちに、わたしは強く惹かれてきた。
彼らには一貫して何かが足りない。足りなさそのものを見つめ続ける力が、音楽の根底にはたらいているように聴こえる。足りない部分を埋めたいという欲求やエネルギーはもちろんあるのだろう。むしろ、ほかのどんな音楽よりも強くある。たぶん、強すぎて逆転してしまったのだ。欠落を補おうとするあまり、失ったものや、悲しみや、ぼんやりした虚ろさえすべて見えてしまって、彼らのエネルギーはものすごい密度と速度でその中へ集まってしまう。欠落に対する感度が異常に高くて、ほんのちょっとでも無視することができないのだ。苦しいだろうな。「足りない」こと、そこからしか出てこない音楽をエルレは背負っていた。だからわたしは彼らに出会えたのだ。初めてエルレを聴いたとき、ひどく傷ついたような気持ちになったのは、きっと彼らに共鳴したからなんだろう。足りない、足りないと叫びつづけてきた彼らの音楽が、わたしの中でジリジリと燻っていた、わたし自身でさえ気付けなかった「足りなさ」を、素手でつかんで掘り起こした。以来、それはわたしの大切な一部になった。
だから、ライブに行きたかった。
会場にあふれる笑顔と熱気の中、秋みたいだと思っていた曲たち――秋そのものの『The Autumn Song』でさえも――がことごとく夏を取り戻していたのを観て、確信した。ここを目指していたんだと。エルレが見つめ続けてきた「足りなさ」は、こんなにも大きな愛情の中で、四人とオーディエンスの全員で叫ばれることによって、埋まった。彼らの音楽の寂しさも、塞がらない傷口も、この場所のためにあったのだ。この満たされた笑顔のために。
あの『The Autumn Song』との出会いまでは、エルレガーデンのこと、奔放でやんちゃな人たちだと思っていた。けれど、その足取りは見かけよりずっと薄暗く、苦くて、少しずつのものだったんだと、今ならわかる。だからこそ、その先に辿り着いたライブは幸せに満ちていた。10年も後の、画面越しの人間にすら伝わるほどに。
エルレのライブに行きたい。今、わたしに足りないのはそれだ。

先日9月7日は、エルレが活動を休止してちょうど9年目だったと聞いた。
四人に何があったのか、それぞれがどんな思いを抱いていたのか、わたしは何も知らない。知らないけれど、それでも、確かにエルレガーデンの音楽が好きだ。この寂しさが証明だ。彼らがわたしの心に見つけてくれた穴を、未だに大事に抱えて生きている。いつかきっとまた現れるはずの、あの場所に持っていくために。あのあたたかな一夜の中に、みんなで欠けた部分を持ち寄って、音と光と笑顔で埋めるために。いつまででも待とうと決めたのだ。どんなに先になったっていいから、一回だけだっていいから、いつかあの光景のなかに、今度はわたしもいられたらと、強く憧れてやまない。


この作品は、「音楽文」の2017年10月・月間賞で入賞した愛知県・nyoさん(20歳)による作品です。


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