“WHAT A BEAUTIFUL WORLD” - SEKAI NO OWARIの軌跡と未来〜The Colorsに参戦して〜

「世界観が好きです!!ファンタジックで、非現実的な!!」

テレビでのインタビューやSNSなどでよく見聞きするファンの台詞だ。
確かに間違ってはいないと思う。彼らが創り出す洗練された世界観は彼らの魅力だし、私自身こんな台詞を口にしたことは何度もあった。
ただ、「今の彼ら」、「今のSEKAI NO OWARI(以後、セカオワ)」を形容するにはどうしてもこの「ファンタジックで非現実的」という言葉に違和感を感じずにはいられない。



2019年5月11日、私はセカオワの全国ツアー「The Colors」に参戦するべく、宮城県セキスイハイムスーパーアリーナへと足を運んでいた。
1月に2枚同時リリースされたアルバム『Eye』『Lip』を毎日何周もして、アルバムに収録された新曲たちもお披露目になることだろうと胸を踊らせながら公演時間を迎えた。



まず衝撃を受けたのが「バンドの編成」だった。
『Eye』の1曲目に収録されている“LOVE SONG”のMVを見た時からかなり驚いていたのだが彼らのバンドの編成が変わっていた。
ボーカル、ギター、ピアノ、DJというヘンテコな編成の彼らは、これまでそれを武器にしてきた。この編成だからできることをしよう、そう言って、花火や心臓の音を使ったり屋外でレコーディングを行ったり、変則的な編成を活かした曲作りをしてきた。そんな彼らが、(全曲ではないにしろ、)Fukaseがベースを、DJ LOVEがドラムをすることで本来のバンドらしい編成でステージに立っていた。
彼らは本当に挑戦することをやめない、ということをはっきりと目の当たりにした。
思えば、それだけでなく、ステージ上以外での活動として、Fukaseは1人でCMに出演したりMVや雑誌の撮影で海外に赴いたりしていたし、Nakajinは楽曲を他のグループに提供していたし、Saoriは本を執筆しているし、DJ LOVEは1人北海道へ赴きテレビに出演していた。メンバーそれぞれが個々の活動を通して得た力を、4人で集まった時に「バンド」の力として発揮しているように感じた。
彼らを見ていると不可能なんて言葉を忘れてしまいそうになる。



ライブは最高のものだった。
今回は二階席だったというのもあり、スターライトリングが一斉に点灯したり、色を変えたりするのは圧巻の眺めだったし、音源版とはまるっきり違うアレンジで演奏された曲も新鮮だった。
4人が登場した瞬間から目の縁に溜まっていた涙は、曲を重ねるほどに堪えきれなくなっていき、アンコールが終わる頃には握りしめていたタオルがぐっしょり濡れていた。
そのくらい、本当に最高のものだったのだ。


しかし、公演後、ふと、冒頭に書いたような違和感に気づいたのだ。
繰り返しになるが、ライブは本当に素晴らしいものだった。
それは物足りなさとは違った、ただ漠然と「何かが引っかかっている」という感覚があるだけだ。





では、この違和感はなんなのだろうか。





その答えとなる曲がある。



『Eye』に収録されている“すべてが壊れた夜に”である。
初めて聴いた時、楽器の音数も少なく、シンプルというか、アコースティカルな曲、という印象を持った。サビに歌詞がなくメインボーカルの深瀬と数名のコーラスが同じ音程で「LaLaLa」と繰り替えすだけの誰でも一緒に歌える曲になっていて、実際ライブでもメンバー4人が横一列に並んで歌い、その姿はどこか「ゴスペル」を彷彿とさせた。サビでは会場が一体となってLaLaLaと口ずさんでいた。


これは、実際にメンバーの誰かが語っていたことではないため、あくまで私の考察ということになってしまうがこの曲の背景となったと考えられる出来事があるので書かせていただきたい。


2018年6月16日、全国ツアー「INSOMNIA TRAIN」の宮城公演1日目のMCで語られた話だ。

私は幸運にもこのライブを観に行っていて、実際に自らの耳でFukaseの言葉を聞くことができた。



その日、Fukaseは曲中に嗚咽して歌えなくなったり、涙を流していたりした。初めはそういう演出なのか?とも思ったが、だんだんそうでは無いらしいということを察した。
それからMCで語られたのは、Fukaseの大切な友人が亡くなった、とのことだった。
(以下、FukaseのMCより一部抜粋)


『嬉しい、かけがえのない出会いがあったときに、これから失う心配をしなきゃいけないんだなとか、それでも僕はステージに上がらなきゃいけないんだなとか、そういうことをずっと考えてて、僕の周りにいる人達と今日が最後かもしれないとか、よく聞く言葉のフレーズで明日いなくなるかもしれないと思って生きる、すごくありふれた言葉だし、その言葉を知ってたけど分かってなくて、そんな当たり前のことが分かったツアーでした。(中略)まだ自分の中では、はっきり言葉にならなくて、ツアー中は自分の中で答えが出せたらと思ってます。』



このMCを聞いたとき、私はつられるように涙を流していた。いや、「ように」ではなくつられて泣いていた。「悲しい」「辛い」そんな暗い感情が、彼の言葉を通して私の胸に流れ込んできて、心を飲み込んでしまった。でも、それはもらい泣きでしかなかった。
このとき私が受け取ったのは、「深い悲しみ」ただそれだけであった。


そして、MCで語られたことの「答え」が、MCから約7ヶ月後、アルバムのリリースにより私を含めたファンの耳に届くことになった「すべてが壊れた夜に」と、今の彼らの姿勢なのではないか、と思うのだ。


“すべてが壊れた夜に”の歌詞に登場するのは「僕」と「君」の2人だけのように思うが、もう1人片仮名表記の「キミ」が出てくる。

『僕らは皆、何でも知ってる/知ってるのに分からない事ばかりだ/でも僕は分かってる 1つ確かな事を/それは君が僕に教えてくれたんだ』(すべてが壊れた夜に)

この「君」というのがMCで語られた友人のことではないか、と思う。
後の歌詞に

『でも僕は知ってる 分からない事を/それをキミに届けに来た』(すべてが壊れた夜に)

とある。この片仮名表記の「キミ」は私たちファン、リスナーを指すのだと思う。

つまり、私たちが「知っている」ことは沢山あるが、それを本当に「分かっていますか?(理解できていますか?)」ということを問いかける歌詞になっているのではないだろうか。
Fukaseが、彼自身が体験したことを自分の中に留めて終わりではなく、曲として私たちに届けてくれた、そういうことではないだろうか。



この文章を読んでくれた方、是非“すべてが壊れた夜に”を聴いて欲しい。聴いた事がある方ももう一度聴いて欲しい。そして、最後の4行の歌詞をよく読んで欲しい。そこに込められた思いに触れることができたら、きっと、もう一度「生きる」ことを見直すきっかけになると思う。



“すべてが壊れた夜に”を聴いて、やっぱり私は泣いた。何度も繰り返し聴いて、歌詞の意味を噛み砕いて、飲み込む度に泣いた。大袈裟ではなく、何度泣いたか分からないほど泣いた。
あの日のMCでは「悲しい」という感情しか受け取れなかったが、曲を聴いたときは彼らの「答え」を、そして「私たちに伝えたいこと」を彼らからのメッセージとして受け取ることができた。



曲にする、インプットしたものをアウトプットする、その作業はきっと一筋縄では行かなかっただろうと思う。悲しみに向き合うことは傷口を抉るようなもので、激しい痛みを伴うものだ。アルバムのための曲を作るために、そして自分自身の答えを出すために、Fukaseは一人旅に出たこともあったという。それから、幼稚園や学生時代からの幼なじみという彼ら4人の絆も大きな力になっただろう。INSOMNIA TRAINの公演中には涙ながらに歌ったり話したりするFukaseを励ますように、自らの悲しみを押し殺して、微笑み、Fukaseの背中をさする、そんな他のメンバーの姿を実際に行った公演や、SNSに載せられた写真などで何度も目にしたことが思い出される。
そして彼らは見事アルバムを完成させた。確固たるミュージシャンとしての姿勢を魅せた。The Colorsでステージに立つ彼らは堂々としていて、いつにも増して頼もしく見えた。
そんな彼らの姿を純粋にかっこいいと思い、その声に、音に、歌詞に涙できることが誇らしかった。彼らのファンでいてよかった、とそんな有り触れた想いで胸がいっぱいになるのだ。それは、紛れもなく幸せな瞬間で、私にとっての救済であった。



これまで私たちは、彼らを「ファンタジックな曲を作り、現実離れした世界観のライブをするバンド」とカテゴライズすると同時に、その世界観を、彼らの創り出す「ファンタジーな世界」、言わば「異世界」を求めていたのだろう。
何故なら、私たちにとって彼らが作り上げてきた「異世界」は、「現実世界」から隔離された救いの場であったからだ。現実世界であった嫌なことや辛いことを、彼らが創った空間では全部忘れて、彼らから希望を貰う、そんな場所だ。だからこそ私たちはアンコールの前に

『もう一度連れて行ってあの世界へ』(スターライトパレード)

と歌うのだ。
年を、公演を、重ねる毎にその精度は増していった。世界観が徹底されていった。やがては1つの物語としても完成していった。
私たちはその「異世界」に入り込み、これまで何度も彼らに救われてきた。


だが、The Colorsはそうではなかった。
確かに幻想的な演出は沢山あったが、徹底された世界観はそこにはなかった。
The Colorsは私たちが(無意識のうちに)求めていた「あの世界」では無かったのだ。
そして、主に『Eye』の方に収録された曲たちも同様に、「ファンタジーな」「非現実的な」とは言い難いものだったと思う。
それがきっと、冒頭に書いた「違和感」の原因だった。


それでも彼らの言葉は、音楽は、今回の「The Colors」でも紛れもなく私たちにとっての救いであった。
とある公演のMCで“すべてが壊れた夜に”は“銀河街の悪夢”のアンサーソングにあたる曲だと語られたらしい。
“銀河街の悪夢”はFukaseが10代の頃、様々な辛い思いをしたということが生々しく描かれている曲だ。
そんな10代の自分に聴かせてあげたい曲だ、とFukaseは語っていたらしい。 そうしたらあの頃の自分を救えていたかもしれない、と。
そんな10代のFukaseのように、私たちは、少なくとも私は、あの日、「現実世界」で、彼らの言葉や音楽に励まされ希望を貰った。
夢物語は一切綴られていない「すべてが壊れた夜に」という曲に胸を打たれ、明日も生きようと思えた。紛れもなく救われたのだ。




彼らは変わった。
もういつかのようにステージに巨大樹は立っていないし、人喰いが住む怪しげな洋館も建っていない。人の言葉を話す動物たちもいなければ、移動式歓楽街もやってこない。あるのはシャンデリアや檻、色とりどりの照明と私たちの手首で光るスターライトリング、それだけだ。どれも実際に存在している現実世界のものばかりだった。確かに幻想的な空間ではある。だが、私たちがいたのは「異世界」ではなく、普段生活している世界と何ら変わらない「現実世界」だ。
そこで彼らは世界の美しさを唄った。生きることの素晴らしさを唄った。
それは今までとは違う、彼らの新しい救済の仕方なのだ。
そして、“すべてが壊れた夜に”同様、絶望の先で見つけた彼らの答えなのだと思う。



“すべてが壊れた夜に”はThe Colorsでアンコールの最後に歌われた。その曲中ではメンバーの後ろにある大きなスクリーンには世界各地の映像が映し出されていた(私が見た限りでは作られた映像は無かった)。その後、メンバーが捌けていく中スクリーンに映されたのは「WHAT A BEAUTIFUL WORLD」直訳すると「なんて美しい世界だろう」
私たちが生きているこの世界、現実世界は美しい。そんなメッセージが込められていたのではないだろうか。



また、The Colorsでセンターステージに覆い被さるようにして演出の中心となっていたあの檻は、もしかしたら、Fukaseがいつしか自身が入院していたと語っていた閉鎖病棟を表しているのでないか、という声をSNS上などで何度か目にした。私はそれと同時に現実世界のしがらみを表していたのではないだろうか、と思った。過去も現在も含めて、辛いことや悲しいこと、目を背けて自らの中に閉じこもってしまいたくなるようなことの象徴だったのではないか、と思う。
その檻から解き放たれたとき、世界の美しさに気づいた、そんなメッセージが今回のライブには込められていたのではないだろうか。






今日の彼らは現実世界を見つめている。
いや、今までだって、きっと誰よりも現実を見つめてきたのだろう。でなければ、あんなファンタジーな世界は創れない。ファンタジーとリアルはいつだって表裏一体、片方が存在していなければ、もう片方も存在できないのだ。
そんなふうに、これも彼らの表と裏なのだろう。
今までの、ファンタジーを唄うセカオワが表なら、これからの、リアルを唄うセカオワは裏、といったところだろうか。


何処かで誰かが「セカオワは変わってしまった」と嘆いているかもしれない。
私もここまで彼らは「変わった」と繰り返し書いてきた。
しかし、彼らは変わったのではなく元々持っていた「リアルを唄う」という面を顕にしただけなのだと思う。
「だけ」と書いたがこれは容易な、という意味で書いたわけではない。真逆ともとれる面を見せるというのは決して簡単なことではないと思う。
敢えて言えば「見せられるようになった」というところだろうか。
「変化」というより「進化」なのだと思う。
それは、先程述べたように、様々なことを乗り越えて得た力だ。
自分と向き合い、彼らが自らで導き出した答えが今の彼らの姿勢なのだ。
だからその姿はどこまでもかっこよくて、どこまでも勇ましく、そしてどこまでも頼もしい。


誰よりも現実を、そして自分たち自身を見つめてきた彼らにしかできないことだ。
未来の彼らは私たちをどこに連れて行ってくれるのだろう。どんな姿を見せてくれるのだろう。もしかしたらもうあのファンタジックな世界へは連れて行ってくれないのかもしれない。それでもきっと、彼らは私たちを楽しませる最高のエンターテインメントを提供してくれるだろう。生きる希望を与えてくれるだろう。




今日も、身近で起きている些細なことから、どこか遠くの世界の悲惨なニュースまで、現実世界には目を背けてしまいたくなるようなことが溢れている。
俯いてしまいたくなる瞬間がそこら中に転がっている。
立ち止まってしまうことも、いっそ消えてしまいたいと泣き崩れることもある。
それでも彼らの音楽が私に手を伸べてくれるから、もう一度前を向くことができる。
彼らの言葉が私の手を引いてくれるからもう一歩前に進むことができる。
そうしたらきっと、顔を上げられる。
世界の美しさに気づくこともできる。
苦しいことばかりに見えた暗い世界が、少しずつ色づいていく。
それを教えてくれたのは紛れもなく彼らだから。

彼らの音楽と共にこの世界で、この美しい世界で生きていきたい、とそう思う。


この作品は、「音楽文」の2019年9月・最優秀賞を受賞した山形県・ほっぺさん(17歳)による作品です。


公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする