フジファブリックという最高なバンドが取り戻してくれたもの - 「全部引き連れていく」ということ

社会人になってから、失ったものがいくつかある。

自由に使える時間、そこまで仲良くなかった友達、学生割引、季節感…

1ヶ月単位であった休みという制度は、遠慮し合いながらいただくものに変わったし、洋服のサイズが自然と合わなくなるあの感覚と同じように、何人かの友人と疎遠になっていった。

中でも、季節に対する喪失感は圧倒的に大きかった。
周りを見る余裕なんてまるでなく、知らない間に季節が移り変わっていくことが切なくて仕方なかった。

最近、街行く就活生や新社会人とすれ違い、ふと数年前を思い返していた。
そういえば、わたしは4月1日から晴れて社会人になることができなかった。
大学4年生の途中で挫折をし、就活を辞めたからだ。
ある日突然すべてが無意味に思え、電池が切れたかのように動けなくなってしまった。
あれは人生初の挫折で、正直あの時以来、今でも少しだけ心身がおかしいのではないか、と思う時がある。
心も体も予定も空っぽの日々がしばらく続き、一歩も二歩も出遅れたけれど、茹だるような暑さの中、結構なオフィス街で憧れの職に就き、社会人デビューをした。

気付けば、桜も散っていた。
やけに冷房が効いた電車の中で、虚しさを感じていた。
せめて音楽だけでも、と夏らしさを求めてレンタルショップに向かうと、夏の名盤として推されていた水色のジャケットが目に止まる。

1番最初に聴いたアルバム『TEENAGER』。

思わず手に取ったこのアルバムが、運命の出会いだった。
狂ったように何巡も聴き、心の奥底が震え、熱くなっていったのが分かった。

1曲目の『ペダル』を聴いた瞬間、わたしの夏は始まっていた。
あのイントロは、昔に戻ってしまう魔法のようだった。
最後の『TEENAGER』を聴くと、10代の頃に経験した、もう二度と訪れることのない“初めて”が走馬灯のように駆け巡っていった。
癖のある、粘ついた志村さんの歌声は、わたしの記憶に引っ付いて離れなかった。

“どっかにスリルはないかい?
刺激を求めてエブリデイ”
『TEENAGER』(2008)

このフレーズで、心は何かを全力で探し始めていた。

出会って以来、アルバム『TEENAGER』は、人生のバイブル的存在となった。
忘れてはいけない大切なものが、ぎゅっと詰まっているような気がしたのだ。

バンドのことは、何年か前のドラマの影響で何となく知っていた。
『若者のすべて』が有名な、フロントマンが急逝してしまったバンド。

曲を聴き進めるにつれ、そのイメージは完全に払拭された。

元々、音楽は好きだった。
幼い頃から何かと熱しやすく冷めにくいタイプだったわたしは、気に入った曲を延々とリピートし、好きな音楽を着々と増やしていった。

いつからか人に合わせることに慣れ、自分自身を蔑ろにするようになっていた心に入り込み、程よい距離にいてくれたのはいつも音楽の存在だった気がする。
音楽の中で、本当に欲しかった言葉を探していたのだろう。

そんなわたしが、フジファブリックというバンドに熱中するのにそう時間はかからなかった。

給料日にはご褒美と称して、時系列的に過去の作品を集めた。本も読んだ。レンタルショップで出ているCDを一気に借り、ないものは買った。
こんなに熱狂した音楽に出会ったのは、本当に久しぶりだった。
どんなに疲れていても、イヤホンを耳に入れて音楽を聴くと、心地良い疲れに変わったのはもはや魔法の類だったし、その時わたしはまさに多感なティーンエイジャーのようになっていたのだ。

歌に出てくるようなティーンエイジャーのように、知りたいことや行きたいところもたくさんあって、密かに好奇心旺盛だった。
そういえば、あの頃は今よりも強気で、根拠はないけれど、何でもできる気がしていた。
常にスリルを求めていたから、厳しかった校則を破ったりしたのだろう。

いつも、何か衝動が欲しいと思っていた。
伸ばしてきた髪の毛をばっさり切りたくなるような、好きな色がガラッと変わってしまうような…

あまり聴かない曲もあるし、楽器の詳しいことはよく分からないけれど、溢れてくる音や言葉、響き、全部まるっと愛おしい。

特に、予測不可能な曲調と歌詞には胸が躍りっぱなしだった。
駅前の花屋の女の子と脳内で妄想デートしたり、唇の傍にあるホクロにときめいたり、パジャマで朝までパヤパヤしたり、人が駆ける音だけがサビになった曲を、わたしは生まれて初めて聴いた。

そして、志村さんの歌うラブソングはこうだ。

“上目使いでこちらを見たら
まつげのカールが奇麗ね
もひとつ僕のイチゴ食べてよ”
『Strawberry Shortcakes』(2008)

最後に残しておいたイチゴをあげるなんて、言葉を使うよりも自然でいながら、究極の愛情表現だと思う。
ベタなラブソングよりも、ずっとドキドキした。

それに加え、叙情的で情緒溢れる曲も多い。
特に、故郷の富士吉田市を歌った『茜色の夕日』は、群を抜いている。

“君のその小さな目から
大粒の涙が溢れてきたんだ
忘れることは出来ないな
そんなことを思っていたんだ”
『茜色の夕日』(2005)

触ったら壊れてしまいそうなくらい繊細で、弱さと強さが交差し合い、生身の人間らしさが滲み出ている。
上京した人が歌うこの曲は、聴いた人の胸を確実に打つだろう。
茜色の夕日が辺りを包む中、何かを考えながら、どこか遠くを見つめている志村さんが思い浮かぶ。

彼の声に誘なわれ、茜色の夕日が見えたり、どこからとなく金木犀の香りがしたり、満天の夜空の下にいたり、富士吉田市やストックホルムにも行くことだってできた。
音楽を聴くことで、こんなにたくさんの経験ができるなんて、わたしは知らなかった。

志村さんの声は、なんだか不思議な力を持っているようだった。

彼らの曲を言葉にするのは難しいけれど、敢えて思い浮かんだものを羅列するとしたら、自由で、素直で、不器用の中に優しさがあって、ちょっとヘンテコ。
時に激しく爆発して、毒っ気があり、危なっかしい。

そして、どこか懐かしさを感じることができるのは、曲の根底に“青さ”が潜んでいるからだと思う。
この言葉は、アルバム『STAND!!』に入っている『COLORS』の歌詞の中に出てくる。

“影も無くなって
何かがポツリやるせない時は
思い出してほしいよ
青さは失くせないはずさ”
『COLORS』(2016)

この曲を聴くと、時間が経っても大人になりきれずに、熟しきれていない青い部分が残っていることを思い出す。
多分、これは誰もが忘れかけているけれど、忘れることができない本能のようなものだろう。
それと同時に『TEENAGER』に出てきた主人公の生きる今が、実は『SUPER!!』なのではないかと勝手に想像してしまう。

“トキメキをもっとちょうだい
飽きるほどもっとちょうだい
まだまだ行けるさ
明日をもっと信じたいんだ”
『SUPER!! 』(2016)

走りたくなるような爽快なメロディに乗って、求めるものがスリルからときめきに変わり、ちょっとだけ大人になって、今を生きている主人公が思い浮かぶ。

主人公の物語は、きっとどこかで曲から曲へと繋がっていると思う。

2010年にリリースされた『MUSIC』というアルバムがある。

音楽を扱うミュージシャンが、この手のタイトルで作品を出すことは、特別なことのような気がする。
「これが自分たちの考える音楽です」と指し示す作品のように考えているからだ。

このアルバムの一曲目、『MUSIC』。

“心機一転何 もかも春は 転んで起き上がる”
・・・
“うだるような季節の夏は サンダルで駆け巡る”
・・・
“枯葉が舞い散ってる秋は 君が恋しくなる”
・・・
“冬になったって 雪が止んじゃえば 澄んだ空気が僕を 包み込む”
『MUSIC』 (2010)

春夏秋冬の4つの区切りの中で、「君」と「僕」を歌っている。

これが、フジファブリックの音楽なのだろう。

この2分23秒に、彼らの音楽が確かに詰まっていた。
春に『桜の季節』でメジャーデビューをし、夏に『陽炎』、秋に『赤黄色の金木犀』、冬に『銀河』を四季盤と名付けてリリースした彼らは、季節が移り変わるこの国で、今もなお変わらずに四季を奏でている。

志村さんが最後に遺してくれたアルバムは、わたしがフジファブリックを好きになった理由そのものだった。

メンバー全員が作詞作曲をし、音楽と真摯に向き合っているからこそ、多彩な音楽が生まれるのだと思う。
そして、ライブで披露する時には、誰が作った曲です、と嬉しそうに紹介するのだ。

フジファブリック特有の季節に関する表現と青さに、初めて聴いたときからずっと魅了され続けている。
それらは、わたしの生きる毎日にこの上なく馴染んでいる。
彼らの生み出す曲たちは、豊かな表情を持ち、どんな日、どんな気候の中、どんな時間を過ごしていても、ぴったりに合うものがある。

フジファブリックの曲を聴くたびに、失くしてはいけなかった大切なものを、ひとつひとつ取り戻している気がしてならないのだ。

わたしが好きになった時、フジファブリックはもう既に3人体制だった。
初めて彼らを見たのは、2017年の年始に渋谷のタワレコで行われたネットラジオの公開録音。
あの時、ラッキー且つコアなファンが集まったであろうあの場所で、手を挙げられなかったけれど、実はネットラジオの聴き方さえも知らなかった。
マイクの音が切れた時、金澤さんが「志村くんがいたずらしたんじゃないの」みたいなことを言っていて、少しびっくりしたのを覚えている。
好きな期間が長い人や、お金をたくさん使う人が偉いとは思わないけれど、リアルタイムでフジファブリックと共に過ごしてきた人たちとは気持ちが違うし、敵わない。
きっと、両手を上げて喜びたくなるような嬉しいことや、言葉にできないような悲しいこともあったはずだ。

フジファブリックを作った人であり、フロントマンの志村さん。

2009年に急逝した彼のことを、わたしはよく知らない。
初めて知った時は、クリスマスイブに亡くなってしまうなんて、そんなドラマみたいなことがあるのだろうかと思った。
わたしにとっては、もはや歴史上の偉人のような存在で、初めて彼を映像の中で見た時、心の底から会いたいと思った。
彼の全日記集『東京、音楽、ロックンロール』を読んだ。
当時を知らないわたしは最初、その時どんなことを感じながら音楽を作っていたとか、生活面の変化とか、人との出会いとか、とにかく当時の志村さんやバンドのこと、フジファブリックの歴史を少しずつ知っていくようで、確かにワクワクしていた。
しかし、読み進めるにつれて、最初から知っている悲しい結末に向かうように、彼の死へのカウントダウンをしているようで、最後の数ページは未だに読めず終いになっている。

そんな志村さんの誕生日、何年経ってもおめでたい日。
志村さんが旅立った日。何年経っても胸が締め付けられる日。
いろんな人が彼のことを思い出しては言葉にする。
その中で、まだ知らない彼を知ることができたことが嬉しくて、でも悔しくなったりして、少しだけ泣きそうになる。

「普通の大人になりたくなかったから始めた音楽だけど、音楽を辞めて普通の大人になっていった人が妙に幸せそうに見えた」

2007年の富士五湖文化センター公演にて、彼はこんなことを語っていた。

やけに納得できたのは、やりたいことを優先して、就活を諦め、今の仕事を選んだわたしと重なったからだった。
それなのに、仕事は仕事と割り切って、早々に就活を切り上げ、つまらないと嘆きながらも働く友人たちが輝いて見えて、後悔することも多い。
今でもよく、これで良かったのかなんて考えてしまう。

それもあって、志村さんの感情が溢れ、温かさで包まれた、富士五湖文化センター公演の映像は特別に好きだ。
志村さんの故郷を、少年のような青さ全開で、自転車に飛び乗って駆け抜けるようなセットリスト。
彼がアンコールで声を掠らせながら歌った『茜色の夕日』で感極まって泣いていた姿を見て、あの公演にかける思いは見てる側の想像以上のものだったと知った。
いつもの丘に登って、夕方5時のチャイムが胸に響いた場所で夢を見続けて、それを叶えたのだ。
涙で声が出ず、“しまった”というコーラスだけが響いた最後のサビは、音楽によって東京という地で繋がった、バンドのすべてが詰まっているようでとても美しかった。

一度でいいから、彼をこの目で見たかった。
狭いライブハウスで、彼が生み出した音楽を聴きたかった。
全身全霊で音楽と向き合い、ロックに愛され、生涯フロントマンであり続けた志村さんが旅立って何年経とうとも、わたしはその存在にずっと夢を見続けるだろう。

志村さんのボーカルに惚れて、フジファブリックに入った山内さん。

昨年の秋に行われた山内さんのソロライブの最初の曲は、『PRAYER』だった。

“いつの日か歳をとっても
歌えなくなったとしても
どこまでもこの想いは
なんて大袈裟かな
あいも変わらずに”
『PRAYER』(2016)

アコギ一本に、バスドラのみのシンプルな編成で、選曲を含め、“歌う”ということに重きを置いているようなライブだった。
2010年の夏に富士急ハイランドで、心臓の音が聞こえるくらい緊張しながら『会いに』を歌っていた彼は、今や伸びやかな声と、無垢で柔らかな笑顔を纏い、ギターを愛おしそうに奏でて歌っていた。
MCでは志村さんの名前が出てきて、何度も真っ直ぐな目でバンドのことを話してくれた。
あんなに温かいライブは初めてで、彼が歌う理由を身をもって体感したような時間だった。

そして、最後の曲はこうだった。

“君をおもい
僕は歌う
ラララってね”
『sing』(2014)

山内さんは、“愛”という言葉を体現したような人だと思った。

フジファブリックは、どうしても志村さんがいた頃、と3人になってから、に分けられてしまうと思う。
わたしも無意識のうちにボーカルの声を聴き分けているし、この曲を志村さんが歌ったら、とか、山内さんが歌ったら、なんてことを考えることもある。
フジファブリックが好きだと話すと、開口一番に「志村の頃は聴いてた」と言う人もいた。
正直、勿体ない。
志村さんが歌っていた時から、フジファブリックが伝えたいことは何一つ変わっていないのだから。

山内さんがこんなことを言っていた。

「全部引き連れていく」

だから、志村さんが作った曲をライブで演奏し続ける。
志村さんの名前を、ライブで叫ぶ。
志村さんの名前が、作品のクレジットの最後に入っている。
志村さんへ向けた曲がある。

フジファブリックは、志村さんが作ったバンドであり、彼はいつまでもどこまでもメンバーなのだ。

それは、いつだって感じることができるし、これからもずっとずっと変わらないことで。

たまに、山内さんが志村さんと同じ曲を同じキーで違和感なく歌っていることが、奇跡のように思える瞬間がある。

お客さんが全員帰ってしまう悪夢を見ても、志村さんの声が聴きたいと言われても、フジファブリックを続け、歌うことを決めた山内さん。
それを受け入れて、同じ方向に突き進む金澤さん、加藤さん。
その決断を形にした周りのスタッフさんや後押ししたアーティストの方々、関わった人たちをしっかりと味方に付けて、バンドを転がしてきたのだと思う。

“「ヨーイ」の合図で踏みしめた
飛び出すのならここからだ
ハートの鐘が一つ鳴れば
さあ進むのさ ”
『STAR』(2011)

『Intro』から繋がった『STAR』は、プリズムのように煌めきながら、どこまでも明るい方向へ突き抜けていくようだった。

“たくさんのこれからを待っている事にしたんだ
書きかけの手紙だけどそのままを送り出すよ”
『スワン』(2011)

なんて前向きな言葉を紡ぐのだろうか。

その理由は、きっとこうだ。

「フジファブリックが好きだから、失くしたくなかった」

結成10周年にして初の武道館公演にて、やはり真っ直ぐな目で、山内さんは言っていた。
その姿はとても凛々しく、この上なく頼もしかった。

この言葉が、全てだ。

ふと振り返りたくなって、仕事の帰り道にこんな長ったらしい文章をつらつらと書いている。
我ながら引くほどの集中力で。
2年前の夏から、フジファブリックと共にあるような日々だ。
音楽の聴き方も多少変わったし、行ったことのなかった場所に行ったり、ライブを目標にして仕事も頑張ることができている。
もっと早く好きになっていたら…と思うことはたくさんあるけれど、わたしが今ティーンエイジャーだったらここまで熱を上げることはなかったと思う。
倒れそうな背中や、折れそうな心をそっと支えてくれると感じるのは、確かに積み上げてきた思い出や記憶のおかげである。
だから、辛いことや悲しいことを経験してきて良かったのだろう。
思い返せば、そこから得たものは大きかったし、背中合わせにいつも音楽があった。

何歩か出遅れたわたしも、社会人になって3年目になろうとしている。
ブラックコーヒーが飲めるようになった。
自由に使える時間は減った分、自由に使えるお金は増えた。
社会人になっても友達はできるし、大切だと思う人を、もっと大切にするようになった。

しかし、高いビルに囲まれて、早歩きをしている間に、やっぱり季節に置いていかれているような気がした。

社会人になって失ったものを、取り戻したくなる。

なるべく季節を感じられる心の余裕を持っていたい。
スリルもときめきも、いつでも追いかけていたい。
心が求めているのは、大体いつも同じようなことなのかもしれない。

折角、四季のある国でフジファブリックという最高なバンドに出会うことができたのだ。

全部を引き連れて、もっと外に出ようと思った。


この作品は、「音楽文」の2018年5月・月間賞で入賞した東京都・JSさん(24歳)による作品です。


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