しあわせになってしまった君へ - クリープハイプを、もう一度聴いて欲しい

そういえば、クリープハイプを暫く聴いていない。
理由は簡単だ。君も、私も、あの頃とは変わってしまったから。
あの頃よりずっと、幸せな人間になってしまったから。

22歳の私は誰にも愛されていなかった、と思う。
なんとか大学を卒業してしまい、別にやりたくもない仕事に就き、毎日毎日愛想笑いを顔に貼り付ける日々。
親には散々言われていたが、仕事を辞めて実家に帰るという選択肢はなかった。どうにか社員と名の付くフルタイムの仕事をしていれば、親にまだ五月蝿く言われずに済む。人生の中で、最も鬱屈した時代を過ごした故郷に戻りたいと思う気持ちは1ミリもなかった。私の人生初めての反抗期だった。

元々自己肯定感の低い私の自身への認識は、仕事を始めてさらに歪んでいく。仕事で自己の内面を徹底的に否定される一方で、幸か不幸か、仕事の影響で私は自身の人生史上最高の容姿を手に入れた。
お陰で沢山の色恋沙汰に巻き込まれた、けれど私の手元には可笑しいくらいに綺麗さっぱり何も残らなかった。

私がクリープハイプを一番よく聴いていたのはこの頃だと思う。
『社会の窓』や『オレンジ』を自分の歌だと思っていた。多くの人がそう思っていたように。

《確定した公共料金はただの生活の記録で
凡人とは違う暮らしに憧れていました》
ー オレンジ/クリープハイプ より

彼らが一時期、一部の界隈の人々において爆発的な人気を獲得していたのは、なにより自己をそのまま投影出来る尾崎世界観の歌詞の存在がとてつもなく大きかったのだと思う。
バイトでも事務でもピンサロ嬢でもない私でも、クリープハイプの歌は自分の歌だと思っていた。
彼等の歌を、【誰にも愛されていない自分の歌】だと思っていた。
クリープハイプを支持する多くの人の共通認識は、この部分が大多数を占めるのだと思う。

けれど、【誰にも愛されていない自分の歌】を歌うバンドが支持されるのも、冷静に考えれば少しおかしな話なのだ。
支持する、という行為に伴う感情は、好意か嫌悪か。どちらかと問われれば間違いなく好意の可能性が高い。

一方で、【誰にも愛されていない自分】に伴う感情は、好意が嫌悪か。
自分という言葉を一般の人間と置き換えてみよう。誰にも愛されない人間、誰にも必要とされていない、惨めで、寂しい人間。誰かの価値になれるような、いい所なんて何一つない人間。
そんな人間に伴う感情は間違いなく嫌悪であるだろう。そんな人間になりたいと思う人は世間一般的にはいない、はずだ。イコール自分がそんな人間になるまいと、努力や尽力を重ねている人もきっと少なくない。

【誰にも愛されない自分の歌】を歌うバンドに伴う感情は好意、【誰にも愛されない自分】に伴う感情は嫌悪。
一般論としては矛盾するこの2つ。だがクリープハイプは一部の界隈の人々に絶大な支持を得た。
その矛盾の裏に居るのは、【誰にも愛されない自分が大嫌いだけど、そんな自分のままでいい、なんならそんな自分が好き】というとんでもなく捻れた自己認識を持つ人々なのではないかと思っている。

自己肯定感の低い人間は幸せになる事を拒む、という話がある。
恋愛のシーンにおいては特にそれが顕著で、自己肯定感の低い人は追い掛けられると急激に冷める、というエピソードは有名な話だろう。
研究者によると、「自分なんかを好きになるなんて、この人の考えている事はわからない。この人は趣味が悪い。」と考えてしまうのだという。

自己肯定感の低さは生まれ持ったものではなく、環境の中で時間を掛けて熟成された物だ。今まで生きてきて、家族や異性など多方面の意味合いにおいて、誰かを愛する感情が認められた経験や、誰かから愛された経験のない人間は、自分にその資質が、その価値がないのだと認識していく。その中で蓄積された自己への否定が、自己肯定感の低さとなっていく。

誰にも愛されない、必要とされない人間である、という自覚は、真っ直ぐ受け容れた人間を間違いなく殺す。
自己肯定感の低い人間は、悲しい末路を辿らないようにする為に、自分への否定の感情を真っ直ぐ受け容れないようにするしかなかった。
その矛先は、諦めか、誤魔化しか、歪んだ自己愛か。そのぐらいしか道が残されていないのではないだろうか。
【誰にも愛されない自分が大嫌いだけど、そんな自分のままでいい、なんならそんな自分が好き】という捻れた人間はそうして完成されていく。相変わらず誰にも愛されないまま。

《でも僕は僕が嫌いです 本当に僕が嫌いです
この喋り方もこの声も
何も伝えられなかった時の情けない感じも》
ーあの嫌いのうた/クリープハイプ より

本当に自分の事が嫌いならそもそも歌になんてしない。
そしてきっとこんな歌大嫌いだ。自分の見たくない部分を顕在化されてしまうから。
けれど聴いてしまう人が沢山いるのは、きっとそういう事なんだろう。

この頃のクリープハイプを好きな人たちには、面白い共通認識があったように感じる。
クリープハイプは好きだけど、クリープハイプを好きな人は嫌い。
私自身もそうだったし、そう発言する人間もSNSなどにおいて多々目にしてきた。
だが、【誰にも愛されない自分が大嫌いだけど、そんな自分のままでいい、なんならそんな自分が好き】な人間たちにとっては、それはごく当たり前の現象なのだろうと今になって思う。

当時のクリープハイプの楽曲でフォーカスの当たっていた部分は、あくまで矛盾した彼らの【誰にも愛されない自分が大嫌い】という感情が大きかったように思う。

《死ぬまで一生愛されてると思ってたよ 信じていたのに嘘だったんだ》
ー 愛の標識/クリープハイプ より

クリープハイプの曲が好きな人たちは、【誰にも愛されない自分】の歌が好きな人間である。
けどそれは結局、【誰にも愛されない自分】が好きって事ではないか。悲劇のヒロインぶった人間を好いたりする人間がごく僅かである事は周知の事実であるだろう。
自己肯定感の低い人間は、自分への絶対的な自信などないから、他人を気にする意識が強い。特大のブーメランを投げている自覚があるのかないのかはいざ知らず、同じようにクリープハイプを聴く人間を、自分と同じような人間だと思い込み、同族嫌悪に陥っていたのではないだろうか、と思う。

しかしわたしは、前述の通り、幸せになってしまった。
自分を愛してくれる人に初めて出会う事ができ、いつしか【誰にも愛されない自分】を歌うクリープハイプは、私の歌ではなくなってしまった。
おかげで暫く彼らの曲を聴く機会がなかったが、ついぞ先日久しぶりに彼らの曲を耳にした時、思わず1人で笑ってしまった。

なぜなら、彼等の歌もまた、幸せになってしまっていたからである。

彼等のターニングポイントとなっているのは、間違いなく『世界観』に収録された一曲『バンド』であっただろう。

《だけど愛してたのは自分自身だけで馬鹿だな
だから愛されなくても当たり前だな糞だな》
ー バンド/クリープハイプ より

尾崎世界観が歌う《愛してた自分自身》は、【大嫌いな自分】の事ではないのだろうか。
【大嫌いな自分を愛していた】事を、彼は初めてこの時言葉にして顕在化させている。

思えば、そもそも「世界観」という言葉は尾崎世界観自身が誰よりも忌み嫌っていた言葉だった。
皮肉を込めて自身の名として使い始めたのは有名な話だが、本名をタイトルに冠した『祐介』という著作を出して尚、そんな皮肉の対象としていた『世界観』というバンドのアルバムを世に出したのである。

書籍の出版か、たくさんのタイアップか、事務所とのトラブルか、はたまた日常での誰かとの出会いか。
明確なきっかけなどなかったのかもしれない。けれどいつしか、「世界観」は大事な人たちから認められている事に気付いたのだと思う。【大嫌いな自分が大好き】な「世界観」でいい、と、大事な人たちに受け入れられている、と感じたのだと思う。
同時に、きっと初めて、【大嫌いな自分】を、そして【そんな自分が大好きな自分を】を、赦す事が出来たのではないだろうか。

《今日はハズレ 今日もハズレ そんな毎日でも
明日も進んでいかなきゃいけないのか
大好きになる 大好きになる 今を大好きになる
催眠術なんてもう解いてよ

大好きになる 大好きになる 今を大好きになる
無理に変わらなくていいから
代わりなんかどこにもないから
もしかしたら明日辺り そんな平日》
ー 陽/クリープハイプ より

久しぶりにクリープハイプを聴いた第一印象は、昔の尾崎世界観なら絶対に書かないような歌詞を書くようになっている、という事だった。
昔の彼はずっと何者かになろうとしていた、代わりのない何者かに。
代わりのない者になろうとする、という事は、自身が代わりなんかいくらでもいるような人間だ、という自己認識であった事に他ならない。
個性的、という言葉による画一化に囚われていた、たくさんの人がその鎖に絡まっていたように。

今の彼らは、確固たる代わりのない何者かになっている、という自覚を得る事が出来ている、ように思う。
その自覚を得る事が出来るのは、圧倒的な他者の承認を得られた時だけだ。それも、どうでもいい存在からではない。自身が承認を得たい、と思う相手からの、絶対的な承認。ただそれだけ。
【大嫌いな自分】の事しか見えていなかった独りの青年は、何かのきっかけで、たくさんの人たちの事が見えるようになった。彼らの自分への、優しい眼差しや暖かな言葉も。

そんな自己認識の変化から、現在のクリープハイプの楽曲に於いてフォーカスされている部分は【誰にも愛されない自分が大嫌い】から、【そんな自分でもいい】に大きく移行しているように思う。
大人になった、の一言でそれを片付けてはいけないし、片付けたくはない。
そんなの、【誰にも愛されなかった自分】が可哀想じゃないか。彼や彼女のお陰で、今の私が生きていられるというのに。

変化を遂げた事で、クリープハイプはさらに沢山の人に愛されるようになったのだと思う。
今現在【誰にも愛されない自分が大嫌いだけど大好き】な人の歌も、【そんな自分でいい】と思えるようになった人の歌も、尾崎世界観は歌う事が出来る。
けれど、だからといって、その事によって誰かを救おうという押し付けがましさはそこにない。彼自身、きっとその押し付けがましさにはなんの意味もないと知っているから。
他者が気付きのきっかけを与える事はできる。けれど、自分を赦す事が出来るのは、結局自分自身だけなのだと、知っているから。

大学時代、心理学を専攻し、カウンセリングを学んでいた私に、とある教授が教えてくれた事を思い出す。

「苦しむ人を救いたいから、カウンセリングや心理学を学びたい、という人は多いんです。
でもカウンセリングは、人の足にはなれないんです。
その人を一生救い続ける事なんてできないんです。

...カウンセリングはね、松葉杖のようなものなんですよ。
誰かを救う為の、誰かが立ち直る為の、一時的な支えのようなものなんです。
人間最後は必ず、自分自身の足で立ち上がらなきゃいけないからね。」

今のクリープハイプは、まさにそれを体現する音楽を完成させたのだろう。

誰かを救う為の音楽ではない。
誰かが、いつか自分自身を救う為の音楽。
尾崎世界観はこれからもきっと、そんな音楽を歌い続ける。

《いつかこの糸が千切れるまで 今は踊れ手のひらで
どうか重ねた手の温もりで 何度でも探せ
いつもまとわりつくこの糸を 運命と呼べるその日まで
どうか重ねた手を掴むまで 何度でも壊せ》
ー イト/クリープハイプ より


この作品は、「音楽文」の2019年1月・月間賞で入賞した愛媛県・曽我美なつめさん(27歳)による作品です。


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