映画『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ泣ける? - 隙があるからこそのクイーン、薄いからこそのクイーン。

想定外に10年越しの企画となってしまった映画『ボヘミアン・ラプソディ』を、けっこう多くのクイーンのファンは「完成したんだから100点だ」くらいの大らかな気持ちで迎えた。
制作から配役まで、もはや何回ゴチャゴチャと揉めたのか。2016年くらいには、ファンのほとんどが映画企画の完遂を諦めていたように思う。私もぶっちゃけ諦めてた。

しかしまあ今思い返せば、フレディ以外のキャストが発表されてからの流れは本当に早かった。
ファンがキャストへ似てる似てないと言っているうちにブライアン・メイ本人から撮影現場の様子が投下され、遠目に見る俳優の演技に「これひょっとしたら名作になるのでは?」と思っているうちに最初の予告編が公開され、「俳優って凄い」と度肝を抜かれているうちに公開である。
途中、ブライアン・シンガー監督に色々あったような気がするが、まあ気のせいだろう。

何はともあれ2018年、ついに映画『ボヘミアン・ラプソディ』は完成した。そしてこれが予想外の特大ホームラン。初動は音楽映画歴代2位、公開されたほとんどの国で初登場ナンバーワン。まあ大成功したのである。
私も公開初日に観に行って、初めて「映画が終わっても立ち上がれない」という体験をした。嵐のように感情が渦巻き、何も言えなくなったのだ。なんか凄い映画だった。よし、2回目を観に行こう。結局その日、私が我に返ったのは、近所のスーパーで1時間も彷徨い、でっかいワインの瓶を籠に入れたときのことだった。
ちなみにそのワインは、同じく映画の完成を心待ちにしていた母に全部飲まれた。

いやはや、『ボヘミアン・ラプソディ』は素晴らしかった。10年間待たされたファンを満足させる出来だった。もちろん、悪いところが無いわけではない。しかしそれらを吹き飛ばすほど、「ごく普通に」出来の良い映画だった。
役者たちの演技は最高、音楽は当然最高、史実から少々改変のあるシナリオも、必然性の無い改変はされていない上、王道バンドストーリーとして完成している。ブライアン・メイは多分あれ特殊メイクで若返った本人がやってると思う。やたらとお尻がセクシーなトラック運転手の存在は気になるところだが、これはまあ気のせいだろう。

ところで、ネット上で映画の感想を眺めていたところ、映画での『ボヘミアン・ラプソディ(曲)』を含む楽曲の扱いに不満の声がいくつか挙げられていた。
具体的には、「楽曲が途中で切れてしまうのが嫌」「映画のタイトルがボヘミアン・ラプソディなのに映画内でフルバージョンが流れない」、「ボヘミアン・ラプソディはゲイソングなのに言及されない」、「映画内で歌詞の解釈が無い」などなど。
それらを読んで、納得することもあり、なんか納得できないこともあり。

私は基本的に、あまり批判の意見へ反論するのを好まない。だって、万人が満足する作品なんて無いからだ。だがしかし、今回に限ってはほんの少しだけ、せっかく公開した映画をもうちょっと楽しめるようにというささやかな願いを込めて、「映画『ボヘミアン・ラプソディ』での楽曲の扱い方」について語らせていただこうと思う。

まず曲のフルバージョンが流れないことに関しては、これはまあ仕方ないことだと納得していただけないだろうか。『ボヘミアン・ラプソディ』は上映時間が130分を超える長尺の映画だ。ただでさえ長い映画において、それぞれ5分前後ある曲を丸ごと流すのはキツい。
タイトル曲のボヘミアン・ラプソディが丸ごと流れないことは確かに私も「流さないの?」と思った。しかし130分の中で幾つもに分解された曲を全てかき集めればちゃんとフルになると思う。その辺は誰か検証してください。

あと、これは意外と指摘されていないことだけれど、映画のタイトルの『ボヘミアン・ラプソディ』は楽曲そのもののことを指しているのではない。あの映画は、フレディ・マーキュリーというはぐれ者の狂詩曲めいた人生の話だから『ボヘミアン・ラプソディ(はぐれ者の狂詩曲)』なのだ。映画内の楽曲の扱いで言えば、ボヘミアン・ラプソディよか『Somebody To Love』や『Who Wants To Live Forever』の方が大事なシーンで流れている。

次の「ボヘミアン・ラプソディはゲイソングなのに〜」や「映画内で楽曲の解釈が無い」という意見なのだが、この楽曲の扱い方に対しては、コアなファンはむしろ歓迎しているように思う。
フレディを含むクイーンのメンバーたちは「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞の意味に関して、「ただの歌詞だ」「純粋な芸術表現だ」として解説しない方針を取っている。もちろんそれぞれに考えはあるのだろうが、それを公に語ることはしない。作曲者であるフレディ自身も、何も語っていないのだ。

映画の中で「ボヘミアン・ラプソディ」に解釈をつけていないのは、フレディの遺志を尊重したバンドの意向もあるだろう。加えて、ここで楽曲に何かしらの解釈をつけてしまうと、劇中の「歌詞はリスナーのもの」という台詞に矛盾が出る。
しかし、よくよく映画を見れば、劇中にはフレディが「ボヘミアン・ラプソディ」を思いつくためのたくさんの伏線が散りばめられているのがわかる。出自へのコンプレックス、父親との軋轢、恋人との日々へ蔓延る違和感、随所で流れるオペラ、同性愛、仲間たちの喧騒、高慢なプロデューサー、罵声に歓声、開放的な農場の風景。
どれかひとつを取って意味付けをしても良く、それら全てが絡み合って1曲として集約されたと考えても良く。その方法は結果として、ファンからの評価につながったと思う。

私の大学には歌詞解釈の講義があり、「ボヘミアン・ラプソディ」が課題として出たこともある。その講義では教授によって、「ボヘミアン・ラプソディはゲイソングである」という解答例がつけられた。
しかし、私はそれにずっと違和感を持っていた。具体的に何が噛み合っていないのか、ということを指摘するのは難しく、ゲイソングとしての解釈は一理どころか百理あるような気がした。ゲイソングとしての解釈はなるほど矛盾がほとんどないし、とても納得が行くのだ。

それでも私には違和感があった。だって、フレディは一個人であると共に、クイーンという4人組バンドの内の1人である。そしてクイーンは、決してフレディのワンマンバンドではない。フレディは果たして、そのバンドのサウンドを使って個人的なセクシュアリティを告白するような人間だろうか?
私は、違うと思う。

ボヘミアン・ラプソディは、英国ロックが辿り着いた1つの結論である。機知や示唆をたっぷりと含み、異国情緒を含みつつも情熱に染め上げられた歌詞。それを演劇的に歌い上げる唯一無二の輝かしい歌声。意外にもシンプルなドラムのビートに、縦横無尽に動き回るベースライン。そして鋭く高貴なギターの音色。
この曲にある数多の要素は、ありとあらゆるバンドから少しずつ影響を受けたものだ。ビートルズが持つ皮肉、ザ・フーの哲学、ストーンズの反骨精神、ツェッペリンの幻想性、ブラック・サバスの劇的展開、などなど。それらにシェイクスピアやオペラのエッセンスを加え、ボヘミアン・ラプソディは出来上がっている。
詰めこめるものを全て詰め、そこから無駄な要素を全て排除して、煮詰めに煮詰めて作られた、非常に純度の高い芸術。それがこの曲なのだ。英国ロックの英知の結晶。だからこそボヘミアン・ラプソディは多くの人に愛され、今でも大合唱されるのである。

クイーンはこの曲をもって、いまだ批判的な評論家たちに殴り込みをかけた。輝かしい勝利の確信とともに。陳腐な伝統と慣習を撃ち殺し、矛盾と錯綜の中で神の一手を切望して、襲い来る批判の声に大声で怒鳴り返す。そして最後を飾る言葉は、「なんてことはない、どっちにしたって風は吹く」。「おまえら評論家が何を言おうが、すべてはリスナーが決めるのさ」、というところである。
私にはこのボヘミアン・ラプソディの歌詞が、クイーンを取り巻く環境そのものを歌っているように見えるのだ。しかし、敢えて語りすぎることはしない。だって、「歌詞はリスナーのもの」なのだから。

誰にだって決断の時は来る。それから先の人生の全てを変える選択を迫られることがある。「もうお終いだ」と全てを放り出したくなることもあれば、袋小路に迷い込み、自己矛盾に苦しむこともある。「どうせ私が何やったって無駄なんだろ!」と叫ぶことなんて、毎晩のようにある。え?ない?そんなのはお前だけだって?んなこたぁないだろう。

ボヘミアン・ラプソディは幻想的な歌のようでいて、そこに歌い上げられている感情のひとつひとつは至極ありふれたものだ。
悲観、決断、悲しみ、愛、心配、旅立ち、ジレンマ、渇望、孤独、激情、怒り、達観。誰しもが持つそれらの感情や激情を、ボヘミアン・ラプソディは詩的な表現の中に封じ込めているのである。
だからこそこの曲は世代を超えて愛される。リスナーはこの曲を聴いて、自覚できないほどの心の根底で音楽と「共鳴」する。言語が違えど、バンドの演奏は言語を超越する。この曲は音楽の魔法そのものなのだ。

だからこの曲に固定された正解は無い。どう理解して、どう共感して、どう聞くか、どう歌うかはすべてリスナー次第である。もしかしたら当初はフレディも何かを意図してボヘミアン・ラプソディを作曲していたのかもしれないが、巨大スタジアムで観客とこれを合唱する頃には、個人的な感情など喪失されていたことだろう。
そもそもクイーンの本質とは「私情の吐露」ではなく「祝福」だ。戦略と才能を駆使して、より多くの人間を感動させることがクイーンというバンドの目的で、彼らはその目的を達成するためならば、自ら進んで道化となる。「それは絶対に違う(たとえば『I Want To Break Free』は同性愛をカミングアウトする意図で書かれた曲ではない、など)」「その批判は曲解が過ぎる」という事以外で、リスナーの解釈や聴き方を否定する事は無い。評論家が特定の解釈を強制することはあまりにナンセンスなのである。
もちろんそういう私を含めて、ね。

クイーンの楽曲というのは、ほとんどの曲に「隙」のようなものがある。この「隙」というのは、特定の読み方に固定されない要素や、時代に左右されない、個人に左右されない要素のことだ。要するに、クイーンには押し付けがましい曲がほとんどない。悪く言えば「薄っぺらい」、よく言えば「息苦しくならない」。ミュージシャンの思想を押し付けられることがないから、心地良く聴けるのだ。
それは転じて、楽曲にリスナーの立ち入る余裕があるともいえる。全くの予備知識なく楽しめて、耳に心地良く、古今東西、老若男女問わず共感できるのがクイーンだ。クイーンの楽曲の「濃度」は、そうやって楽しむのに丁度良い。

これは映画『ボヘミアン・ラプソディ』にも言えることである。あの映画は非常に静かな映画で、登場人物が演劇的に自らの感情をべらべらと吐露する場面や、仰々しく口論する場面が無い。明確な泣き所もない。それを「薄い」「物足りない」と感じる観客がいるのは確かだろう。
しかし、それは転じて、観客が映画のどこに共感し、どこで泣くのかを映画側が強制しないということでもある。登場人物のだれに、その人物のどこに己を重ねるのかは観客に委ねられている。傍観者として物語のそばに立つことも許される。
だから多くの観客は、ある者は己の青春を想い、ある者は物語に感動し、ある者はフレディがこの世にいないことを虚しく思い、それぞれの想いを抱えて、圧巻のライブシーンを見ることができるのだ。
2018年の巨大スクリーンと最高の音質で蘇る世界最高のバンドの世界最高のパフォーマンス。圧倒的な音楽の力と役者の力、映画という芸術の持つ力を、ぜひ映画館で体感してほしい。

さて、「史実と違う」という批判や、描写への違和感を指摘されている映画『ボヘミアン・ラプソディ』だが、公開から3度目の週末でも動員が伸びており、興行収入という面では、当初の最終興行収入予測をとっくのとうに超えている。観客層は若者も多く、音響のいい映画館は「満席が続きすぎてるから上映回数を倍にします!」とアナウンスし、サントラの売り上げも上々だ。あと、なんか知らんが私のTwitterアカウントのフォロワーさんが300人増え、なぜかブラック・サバスを聴き始める人も現れた。
音楽業界は果たして、このヒットを予測できていただろうか。きっとフレディは雲の上で転げ回って笑っていることだろう。

ところでこの映画、公開された映画の倍くらい映像を撮っていたらしいが、そいつはいつ陽の目を見るのだろうか。10万円くらいは出せるから早く見せて欲しい。
さあ、5回目の鑑賞はどの映画館にしよう。次はいつフレディに会いに行こう。


この作品は、「音楽文」の2019年1月・月間賞で最優秀賞を受賞した埼玉県・安藤夏樹さん(21歳)による作品です。


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