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    パンドラの箱に残されたもの - THE YELLOW MONKEY「パンドラ」を2020年に観る意味

    『パンドーラーがその箱を開くと、中に入っていた病気、貧困、嫉妬などの災厄が飛び出した。こうして世界中の人々が災厄に苦しめられることとなった』


    俗に「パンドラの箱」と呼ばれる逸話は、ギリシャ神話が基になっている。
    厳密には箱ではなく甕であったという話もあるが、一般的には箱というイメージが強いだろう。

    パンドーラーはギリシャ神話では人類最初の女性とされ、「全ての贈り物」という意味の名を持つ。

    その箱の中に最後に残されたものは。


    2020年9月。

    東京都昭島市の映画館で「爆音映画祭」と呼ばれるイベントが行われた。
    選ばれた18作品の内の一つが 、2013年公開のTHE YELLOW MONKEYのドキュメンタリー映画「パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE」(以下「パンドラ」)だった。

    THE YELLOW MONKEYについて、僕は再結成後のファンである。
    当時からの熱烈なファンの方々からすれば一つの大切な記憶の一部でもある作品だが、当時を知らない僕にとっては一つの記録の映画だ。2年半ほど前に一度CSで放送されたのを観た際、そうやって僕はこの映画を見ていた。

    そんな作品が劇場で観れるということもあり、元々の熱烈なファンである彼女がチケットを取ってくれた。映画の楽しみもありながら、久しぶりに会える喜びを胸に抱いていた。

    コロナ禍と呼ばれる状況が続き「会う」ということの大切さを、かつてなく強く噛みしめるような日々が続いている。そんな状況の中で「会いに行く」というツアーのテーマの作品を観ることは、以前に観たそれよりも、より重くなっていた。

    「パンドラ」は1998年から1999年にかけて行われた「PUNCH DRUNKARD TOUR」を追ったドキュメンタリー作品だ。このツアーはホール72本、アリーナ41本、計113本を1年でまわるという途方もない規模のものであった。当時の映像と、2013年のメンバー4人、関わったスタッフたちの当時を振り返る撮り下ろしインタビューによって構成される。

    この映画に記録されているのは決して楽しいツアーのロードムービーではない。後に「バンドの寿命を縮めたツアー」と云われるほど、本数を重ねるごとにメンバーやスタッフたちが疲弊し、消耗していく姿を捉えたものだ。

    これだけの本数のツアーとなった主な理由2つは劇中で明かされる。

    1つ目は「ライヴを見てもらう」という体験を伝えるためだ。
    「チケット即完(即完売)」がウリとされていた時代に、あえてソールドを意識せずギリギリ当日券が出て完売するようにしていたという。興味はあるがチケットが手に入らないという層を狙った戦略だ。

    もう1つは「バンドの成長」のためである。ツアーの前年1997年に第1回の「FUJI ROCK FESTIVAL」、THE YELLOW MONKEYはFOO FIGHTERS、Rage Against the MachineとRED HOT CHILI PEPPERSに挟まれるという形で出演した。

    そこで海外のトップバンドたちと自分たちの音の違いを再確認する。それは人種としての肉体的な面の違いもさることながら、ライヴの本数が違うということから、追い付くために本数を増やしたという。しかしながら世界中をまわるツアーをしているバンドたちの本数を、日本全国をまわるツアーに当てはめたため、日程的にはかなり厳しいものとなってしまった。

    こうした理由から約3日に1公演が1年続くという、およそ狂気ともいえるツアーの幕が開けた。


    映画の冒頭ではツアーのプレライヴとして行われた1998年3月27日に赤坂BLITZ公演の模様が流れる。ライヴハウスはよく“ハコ”と呼ばれるが、ツアーに向けて行われたこのライヴハウス公演がまさに、一つの禁忌の箱に触れる瞬間となった。

    “パンチドランカー”のイントロのドラムが鳴ると、劇場内に観客の大きな歓声がこだまする。
    ドラムのビート、歓声が「爆音映画祭」の効果によって、身体を痺れさせるほどの音で届けられる。

    よく「割れんばかりの歓声」とは言うが、まさに軽く音割れがしているほどの大音量だ。

    緊急事態宣言後、ライヴには行けていない。

    そんな身体を揺さぶる音と声の感覚、これを求めているのだと感慨にふけってしまう。


    ツアー冒頭。「『あと108公演』とか貼るのをやめてくれ。そんな先のことを考えたくない」と吉井和哉にマネージャーが怒られるほど、全く先の見えない長い旅路だ。ただ、まだツアーは始まったばかりということで、ステージや舞台裏でもバイタリティに溢れている。しかしながらツアー中盤に向けて、徐々にこの過酷なツアーがメンバーやスタッフを蝕んでいく。

    特に吉井和哉の精神的、肉体的な疲労は著しく、スタッフの証言によればツアー序盤の北海道の公演が続く中で、もう顔に疲れが出ていたという。そして9月の香川公演ではライヴが終わりステージ袖に入って数歩で倒れてしまう。それでもツアーに穴は空けることなく進行していった。

    72本目の岡山公演。ホールツアーの最終日となったこの日、吉井和哉はステージで「このツアーは失敗でした」と宣言してしまう。

    ライヴが好きだからこそ、行ったライヴそれぞれに大切な思い出がある。

    長く見てきたミュージシャンほど、ファンは成功も失敗も目の当たりにする。それでもミュージシャンがこうしてステージで「失敗でした」と語った時、当時このライヴを見ていたファンは何を思ったのだろうか。

    会いに来てくれた観客にとっては、113分の1の公演ではない。1公演1公演が掛け替えのない1本なのだ。それは、メンバーやスタッフこそが誰よりもわかっていることだ。だからこそ1公演も欠くことなくスタッフはステージを創り上げ、メンバーはステージに立ち続けた。その事実を踏まえても「失敗でした」とあの場で語らざるを得なかった精神状態は、このツアーの過酷さ全てを物語っているようだ。


    しかしながら1999年1月9日。更なる悲劇がチームを襲う。
    年明け初の前橋公演でレコーディング・エンジニアのスタッフだった小松昌博がステージの奈落に転落し、帰らぬ人となってしまう。メンバーやスタッフのショックは大きかったが、それぞれの想いを胸にツアーを続けることを決意する。

    連日の旅で家に帰ることもままならず、家庭の危機から家族を同行させていたスタッフもいたという。同時に共にツアーを創り上げてきたチームは、劇中の言葉を借りれば「戦友」であり、家族のようなものでもあったのだと思う。だからこそ、メンバーやスタッフが語る小松昌博との1つ1つのエピソード、葬儀の光景、自責の念、最期の言葉が重く胸を打つ。

    エンドロールで、小松昌博への追悼のメッセージが流れる。


    『彼との沢山の思い出は、私たちの心の中で永遠に生き続けます。』


    「PUNCH DRUNKARD TOUR」終了後に発売されたライヴアルバムには「SO ALIVE」というタイトルが付けられた。そこに収録されたサウンドには、レコーディング・エンジニアとしての確かな軌跡が刻まれているのだ。


    劇中でツアーが進むたびに日付と会場、「あと〇〇公演」というテロップが出る。
    97年の「FUJI ROCK FESTIVAL」、このツアーによって、バンドの運命は大きく変わってしまった。
    “その後”を知る僕らだからこそ、「あと〇〇公演」というテロップはバンドが終わりへと近づくカウントダウンにも見えてしまう。


    《まだまだまだ見えないまだわからない
    まだまだまだ消えないまだ倒れない
    まだまだまだやめないまだ眠れない
    GO GO GO GO GO!!》


    まさに満身創痍の中ツアーは続くが、1999年3月10日の横浜アリーナ公演で「PUNCH DRUNKARD TOUR」は完結を迎える。物語は最後に演奏された”SO YOUNG”で幕を閉じた。

    「PUNCH DRUNKARD TOUR」の頃、メンバー内で特に音楽性の洋楽志向が強まっていたという。メンバーの音楽性はとりわけUKロックの性質が強く、アメリカのロックの要素がなかったので、自分からメンバーへ提案していったとクルーの加藤俊一郎は劇中で語っている。

    菊地兄弟がエアロスミス、廣瀬洋一がKISSなどからも強く影響を受けているが、元々グラムロックを主体とした音楽性でデビューしたTHE YELLOW MONKEYにとって、UKロックの側面が強いのは自然なことだったのかもしれない。ただ、2016年に再集結してから創られたアルバム「9999」が、アメリカでメンバーが合宿しながら多くの曲をレコーディングしたということを思うと、興味深い因果だ。

    日本のバンドとして海外に負けないような音楽を創る、或いは憧れてきた海外のミュージシャンたちのような曲を創る、いずれにせよ海外のサウンドを強く意識していたのであるならば、あるエピソードがそれと重なった。

    2019年2月にテレビ朝日の「関ジャム 完全燃SHOW」でQueenが特集され、ゲストで菊地英昭と廣瀬洋一が出演していた。そこで”SO YOUNG”のアウトロについてQueenの” You’re My Best Friend”をオマージュしたと語っていた。放送当時は微笑ましく見ていたが、「パンドラ」を見て、当時(ツアー中のイギリスでこの曲は創られた)のバンドの心境を踏まえると、そのオマージュは憧れでありながらも、その頂に喰らいつかなければならないという強烈な意志表明にも思えてしまう。

    それでも、THE YELLOW MONKEYというバンドは、海外のロックサウンドを下敷きにしながらも、日本人的な歌謡曲の要素を合わせ持っている。それによって生み出されたサウンドと、ほとんどの作詞を手掛ける吉井和哉の歌詞の独特な世界観によって、THE YELLOW MONKEYにしかできない音楽を生み出している。

    だからこそ多くのミュージシャンたちからリスペクトを受けるバンドでありながら、他の追随を許さない音楽を奏で続けているのだ。


    “SO YOUNG”について、吉井和哉はインタビューでこう述べている。

    『青春そのものだったツアーのことや、イエローモンキーとファンの関係を歌っている』


    《あざやかな朝日を浴びて歩こう
    すべての愛と過ちを道づれに

    終わりのない青春 それを選んで絶望の波にのまれても
    ひたすら泳いでたどりつけば
    また何か覚えるだろう》


    自ら「失敗だった」と語ったツアーも、人々の愛によって支えられ、多くのファンにとって忘れられない記憶となっている。そしてそれが記録映画となり、今も観る者の心を揺さぶっている。


    《誰にでもある青春 いつか忘れて記憶の中で死んでしまっても
    あの日僕らが信じたもの
    それはまぼろしじゃない》


    三国義貴のキーボードの美しくも切ないイントロ、菊地英二と廣瀬洋一の力強くバンドを支えるリズム隊、アウトロで美しいユニゾンを奏でる菊地英昭のギター、そして吉井和哉が紡いだ歌詞と唄。

    散りばめられた記憶たちが1本の線となって、この“SO YOUNG”に繋がっていく。
    今回観返して、改めてそれに気づかされた。

    スクリーンに映る光景は涙で霞んでいた。


    劇中で2013年の映像でメンバーがボウリングをしながら当時を振り返る映像が流れるが、1箇所とても興味深いシーンがある。

    吉井和哉が他のメンバーへ「今は戦争でさえもサイバー攻撃によって行われる時代になってきた。いつか音楽も実際に楽器を使って演奏していた時代があった、ということになるかも」と冗談交じりに言っている。文脈としては、こうした過酷な旅をすることもないという揶揄なのかもしれないが、2020年を生きる人間にとって、この言葉が違った意味に聞こえる。

    コロナ禍の配信ライヴは自分の部屋をライヴ会場にし、スタジオに集まって生楽器でレコーディングしなくてもDTMで楽曲を制作して、すぐに全世界へ向けて発信できるような世の中になった。もちろん、前からそういった取り組みは行われているが、コロナ禍によって動きが加速したことは間違いないだろう。

    かといって、人が会場に集まってライヴをすることや、生楽器によってスタジオで演奏がレコーディングされることが潰えるというわけではない。テクノロジーの進化がもたらしたのは、淘汰ではなく多様化なのだ。

    自分のようなライヴに行くことが生き甲斐という人間でも、音楽の新しい楽しみ方を受け入れつつあった。しかし、こうして爆音上映で疑似的にライヴというものを同じ空間で共有する喜びを思い出してしまうと、ライヴという空間がより一層恋しい気持ちになった。

    コロナウイルスによって「ツアーで会いに行く」「ライヴに足を運ぶ」という当たり前にあった特別な時間は、そうでなくなってしまった。

    それだけではない。

    顔を向けて話し合う、電車で笑い話をする、居酒屋で盛り上がる、旅行に行く、手を取り合う、抱きしめあう、キスをする、応援する、歓声を上げる、みんなで歌う。

    これまで人々が日常の中で当たり前にやってきたことが、当たり前ではなくなってしまった。
    だが、僕らはそれによって、当たり前にあったことの中にいくつもの幸せと喜びが詰まっていたのだと気付かされた。日常と特別に境などないのだ。

    コロナウイルスは人々へ不条理を投げかけた。しかしながら、僕らが生きている世の中は、常にそうだったではないか。

    さっきまで笑って話していた人が、次の瞬間には二度と帰らぬ人となってしまう。そんな不条理と、僕らは隣り合わせで生きている。

    それでも。人にはそれを乗り越えて前へ進むことができる力がある。

    長い長いツアーでもいつか終わりがあるように。

    その先にはまた新しいスタートラインがあるように。

    長い冬の先に春が待っているように。

    メンバーやスタッフの苦悩の先に、多くの観客の喜びが生まれたように。

    この辛い日々も、きっと何かを残していく。


    THE YELLOW MONKEYは2020年4月に予定していた東京ドーム公演を延期した。
    代わりに東京ドーム、横浜アリーナ、代々木第一体育館、日本武道館の4会場で30周年記念ライヴを開催すると発表した。

    更に先日、最初の公演である11月3日の東京ドーム公演を有観客にすると正式に発表した。

    観客を入れたライヴ公演としては国内でドーム規模のライヴは緊急事態宣言後では初となるはずだ。

    それだけに、責任も重い。

    開催について、吉井和哉はこうコメントしている。


    『ロックンロールのひとつの形態が覆されてしまった今、僕らが作ってきた愛すべき音楽と、オーディエンスあってこそのパフォーマンスと、バンドとスタッフとの絆を絶やさないためにも、これからの生き方を切り開いていかなければなりません』


    それでもTHE YELLOW MONKEYは挑戦することを選んだ。

    終わりを知っているバンドだからこそ、終わらせてはいけないもののために戦うのだ。

    「パンドラ」の挑戦を過去のものとして観ていた僕は、今この新たな挑戦をこの目で見届けようとしている。

    きっとそこには誰も見たことがない景色が広がっていることだろう。


    パンドラの箱から災厄が飛び出し、最後に残ったのは「エルピス」と呼ばれるものだ。

    エルピスは「希望」と云われることが多い。ただし諸説あり、災厄を詰め込んだ箱に希望が入っているはずがないという説を唱える人もいる。

    けれども僕らは、信じていたいのではないだろうか。

    災厄がもたらした世界にも、救いは残っているのだと。

    それがたとえ、スプーン一匙の希望だったとしても。

    未来は誰にもわからない。

    だからこそ今を大切にしなくてはならない。

    けれど、その今が辛く苦しい日々ならば。

    “未来はみないで”と言われたけど。

    ほんの少し、未来に期待したっていいじゃないか。


    この作品は、「音楽文」の2020年10月・月間賞で最優秀賞を受賞した東京都・サトCさん(33歳)による作品です。


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