僕たちはいつだって間に合わないのかもしれない - 赤い公園がきっと見せてくれる未来へ

僕は間に合わなかった。


赤い公園のことを知ったのはいつだっただろうか。音楽を聴くことが多くなってから名前は何度か耳にしていたが、赤い公園の曲を聴くことはなかった。ボーカルが代わっていたことも知っていた。彼女たちの音楽に触れるチャンスは何度もあったと思う。そういった小さなチャンスがあっても曲は聴かなかったし、見ていた音楽番組に出ていることがあってもスルーしていた。赤い公園は他にもたくさんいる「名前だけ知ってるバンド」の一つだった。


2020年10月、赤い公園の津野米咲は突然いなくなった。


赤い公園と同様に彼女の名前はよく聞くことがあったし、僕にとっても驚きのニュースではあった。でもそれは同じ年に突然亡くなった他の著名人に対するものと同じ量の驚きで、それは特別な感情ではなかった。それを聞いてすぐに赤い公園を聴こうとは思わなかった。

12月になって初めて、赤い公園の音楽を聴くことにした。たまたまラジオで聴いた曲、「KOIKI」と「オレンジ」がなぜだか耳に残っていた。今度はスルーできなかった。最初に、出たばかりだったシングルと、一番最近のアルバムを聴いた。

どうしてこれまで赤い公園を聴いてこなかったんだろう。もっと早く聴いていればよかった。そう思うまでに時間はかからなかった。それから繰り返し何度も聴いた。皮肉だ。大切なものは失ってから気付くなんてよく言われる言葉だが、それに近いのだろうか。津野米咲という存在を失って初めて、僕は赤い公園というバンドの素晴らしさに気付いてしまった。


僕は間に合わなかったんだ、と思った。


今はスマホを使えば時代やジャンルを問わず簡単に様々な音楽を聴くことができる。そうやって音楽を聴いてきた僕は既に解散や活動休止をしたアーティストの曲たちに出会い、好きになることは珍しくなかった。赤い公園を初めて聴いた時に溢れ出した「どうしてこれまで」「もっと早く聴いていれば」という感情や、手が届かなくなってから「名前だけ知ってるバンド」が「大好きなバンド」になった瞬間の後悔は、初めてのものではなかった。

赤い公園が終わったわけでは決してないが、それでも中核である津野を失った今になって赤い公園を知ったということが、間に合わなかった、と思わせた。間に合わなかった経験はこれまでもあったと思っていた。ある程度慣れていたはずだったのに、それでも、赤い公園の曲を聴けば聴くほどに、後悔や寂しさや虚しさが広がっていった。バンドの歴史を遡るように、他のアルバムを聴き進めた。繰り返し繰り返し何度も聴いた。


僕は間に合わなかった。


と、聴けば聴くほどにどうしても思ってしまう。

最初は、ボーカルが代わる前のアルバムを聴くことに少しだけ抵抗があった。それまで聴いていたのは新しい方のボーカル石野理子の歌で、それ以前は前のボーカル佐藤千明の歌だったからだ。数週間聴き続けて、僕は石野理子の声に慣れていた。彼女の声と歌の魅力に惹かれ、大好きになっていた。僕にとっては数週間という短い期間だったが、ボーカルが代わるということへの抵抗と不安を、きっと当時のファンたちとも似た感情を、少しだけ僕も感じていたのではないだろうか。しかし、そんな僕の予想を裏切って、一度聴いただけでそのアルバムは好きなアルバムの一つになった。石野理子と同じように佐藤千明の声と歌が好きになったし、同時に赤い公園のこともさらに好きになった。


石野理子の声は「白」だと思う。赤い公園の曲だけでなく赤い公園に加入する前のアイドルネッサンス時代の曲も何曲か聴いた。彼女はどのような曲もものにすることができる人だと感じる。

綺麗で透き通っていて沁み入るような声や、力強く訴えかけるような声や、伸びやかに高らかに歌い上げて聴く人の心にそのまま届くような声。彼女の声はいろいろな面を見せて、曲と自らを一体化させる。何色にも染まることができる。それでもその声は「石野理子」として、「赤い公園」として僕たちに届く。彼女の「白」い声がとても好きだ。

津野米咲は石野の声を”誰でも自分を主役にして聴くことができるというか。匿名性を感じるんだけど、真似しようとすると、誰もできない。そういう記名性の高さがあるという、不思議な現象が起きてる”と評している。匿名性が持ちながらも高い記名性を持つ彼女の歌声は僕たちを魅了し、赤い公園の世界に引き込んでくれる。


石野の声が「白」ならば、佐藤千明の声は「赤」ではないだろうか。過去のアルバムもたくさん聴いた。いろいろな曲を聴くほどに彼女の声の魅力に気付かされるし、脱退当時、彼女の声を失うということに直面したメンバーとファンの気持ちが分かるような気がしてくる。

津野曰く、”ちーちゃん(佐藤千明)って、声が高級”。可愛らしい声も響き渡るような声も歌い分ける彼女だが、その中には特有の深みがある。その深みが津野の言う「高級」ということかもしれない。僕は彼女の歌う、強いようで繊細なサビが好きだ。明るい曲も暗い曲も、滑らかでありながら、奥から滾るような、温度のある強い芯のある歌声で曲の雰囲気を作り上げる。彼女はどのような曲も自らの「赤」で塗って歌い上げ、それは「赤い公園」として完成した形で届く。


僕は二人のどちらが優れているとも思わない。彼女たちの声は、似通ったものでなければ、相対するものでもない。区別や比較のできないそれぞれの魅力を持った声を持つ二人だ。同じ色ではないが正反対ではないまさに無彩色と有彩色であるような、「白」と「赤」の声だからこそ、僕たちは二人の歌声それぞれを一つの完成形である「赤い公園」として受け入れられるのではないだろうか(この場合無彩という表現は石野の声には彩りが無いという意味は全くないし、「赤」である佐藤の声こそ赤い公園にふさわしいという意図も全くない)。

石野は佐藤の代わりにはならないかもしれないが、佐藤も石野の代わりにはならないだろう。しかし、石野は津野が佐藤のために作った過去の曲を「白」で染まって歌い上げることができるだろう。もし仮に佐藤が津野が石野のために作った赤い公園の曲を歌ったなら「赤」で塗って歌い上げることができるのではないだろうか。彼女たちは別々の魅力と才能を持った「唯一無二」だ。


それにしても、どの楽曲を聴いても赤い公園として受け入れられるのには津野の力が大きいだろう。普通はボーカルの力量に関わらず、歌い手が代われば違和感があるだろうが、僕はそれを感じなかった。ほぼ同時に両方の曲を聴いたからどちらにもそこまで慣れがなかったのかとも考えたが、様々な曲を作り、柔軟に赤い公園の形を変えていった津野の作曲力があったからこそだろうと思う。どちらのボーカルに対しても、各々に合った曲を作ることができるから、違和感なくどの曲も「赤い公園」なのだろう。

彼女の作る曲は耳に、頭に、心に残る。最初に聴いたきっかけもラジオで聴いた曲が耳に残っていたからだ。彼女の耳に残る、頭から離れない、消えない曲は、何度も繰り返し聴きたくなるし、聴いていない時も頭に流れてくる。家にいても学校にいても彼女の作る曲は僕から消えない。そんな魅力がある。


ボーカル、作曲にとどまらず演奏ももちろん良い。僕は楽器や演奏や技術に関しては疎いので詳しいことは言わないが、いろいろなアーティストの曲を聴いていて「ギターがかっこいい」「ベースがかっこいい」「ドラムがかっこいい」という曲はそれぞれたくさんある。なぜだろうか、赤い公園は「ギターもベースもドラムもかっこいい」と感じるバランスの良さと演奏力があると思う。何か一つが目立っているというわけではなく、ギター、ベース、ドラム、楽器の音すべてが引き立っていると感じる。ボーカルと作詞作曲だけで回っているわけではない、やはり四人で赤い公園だと感じる。


ここまで長々と書き連ねたが、魅力を感じれば感じるほどやっぱりどこかで後悔や寂しさは残っていた。素晴らしいバンドだ、良い曲だ、と思うと同時に、というかそう思うからこそ、どうしてもっと早く聴かなかったんだ、という気持ちは膨らんでいった。全ての曲を聴き切ってしまう寂しさがあって、何枚かのアルバムには手を付けられなかった。


やっぱり僕は、間に合わなかった


…のだろうか?僕は本当に「間に合わなかった」のか?


赤い公園は、未来を見ていた。特に最近はそれが顕著だったと思う。

≪我々は未来から 集合がかかっている≫(カウンター)
≪ちゃんと願ってる 番狂わせな未来 それすらも導かれてるのかな≫(贅沢)
≪片道切符で僕ら未来へ行こう≫≪こわがらなくていい 僕ら未来へ行こう≫(HEISEI)
≪絶対零度の未来に持ち物リストは無いのさ≫≪絶対零度の未来に永久保証は無いのさ≫(絶対零度)

この曲のように直接的でなくても、赤い公園には希望があって、未来を見ていたと思う。特に、未来に呼ばれていて、願い導かれていた初期に比べて、最近は自ら未来へと進んでいく姿勢が強くなっている気がしている。明日や未来が不安になることももちろんあるのだが、それでも≪明日には数え切れない 奇跡が転がってる≫と「スーパーハッピーソング」では教えてくれたし、≪怖くはないのさ≫≪一人じゃないのさ≫と「KILT OF MANTRA」で元気づけてくれた。

僕が特に好きなのは「yumeutsutsu」だ。新体制初となったアルバム『THE PARK』は10曲目の「KILT OF MANTRA」に続いて、この曲で終わりを迎える。この曲は最後に完成し、ラストに加えられた曲だという。新鮮で聴きなじみのないようなギターがかき鳴らされながら、11曲目が始まる。

≪期間限定の夢の結末を 騒ぎ立てたって何もならないね
 映画じゃないし終わらない 続きを生きているんだ
 そこどけGUYS 私は行くよ 構わず行くよどこまでも
 轟け愛 予感を信じて五感を劈く
 満点の会場はプラネタリウム 君の頬に星が流れる
 未だに醒めない夢なら 本当にするしかないだろ
 そこどけGUYS 私は行くよ 構わず行くよ君となら
 運命の気配 迷ってるんならついておいでよ
 やりきれない夜を越えて 何が何でもまた会おう
 轟け愛 予感を信じて 私を信じて
 そこどけGUYS 私は行くよ 構わず行くよどこまでも
 何%の可能性でも知ったこっちゃない
 行こうぜ うつくしい圧巻の近未来 絶景の新世界≫(yumeutsutsu)

そこどけ、構わず行く、という姿勢には強い意志を感じるし、ついておいでよ、行こうぜ、と僕たちも未来へ連れて行ってくれる。タイトルの「夢現(ゆめうつつ)」は、夢と現実の境がはっきりしないさま、という意味だ。赤い公園がそんな曖昧な夢を現実に変え、「うつくしい圧巻の近未来」「絶景の新世界」を見せてくれるのだ。イントロで鳴り響いていたギターは少し変わって明るく快活に響き渡り、イェーイと叫んで曲が終わる。スパンと切れながらも大きく広がっていくものは、普通感じる余韻とはまた違う。アルバムのラストを飾るのは「終わり」ではなく、「始まり」なのだと強く感じる。


僕は間に合わなかった。これからも間に合わないことばかりかもしれない。それでもいい。赤い公園はいつかきっと、うつくしい圧巻の近未来と絶景の新世界を見せてくれる。そう信じている。「間に合わなかった」僕は、これから赤い公園が見せてくれる未来に「間に合った」のかもしれない。素晴らしい過去を目の当たりにして自分はそれに間に合わなかったと感じても、その先のもっと素晴らしい未来に間に合ったなら、それは最高の出会いだったと思えるだろう。

未来に期待することだけが僕たちにできることではない。「間に合わなかった」僕にできることは、これからもずっと赤い公園を愛することだ。僕はこれからも赤い公園を聴き続けるだろう。僕の声は赤い公園に届かない。僕が赤い公園を変えることはできない。僕はずっと聴き続けるだけだ。でも赤い公園の声は僕に届いている。どれだけかは分からないが、赤い公園は僕を変えるだろう。だから、「間に合わなかった」僕は、赤い公園を聴き続ける。手を付けられていなかったアルバムも、もう聴くことができた。


津野米咲がいなくなっても、赤い公園は消えない。赤い公園の音楽は消えない。赤い公園に限らず、音楽は、人は、心は、消えない。人が、アーティストが、いなくなったって、なくならないものがきっとある。赤い公園は、赤い公園の音楽は、津野米咲が作った音楽は、どこかで生き続ける。

間に合わなかった僕が今できることは、聴き続けること、愛し続けることだ。


僕は間に合わなかった。


そうだ、僕たちはいつだって間に合わないのかもしれない。それでも僕たちは愛し続けることができる。間に合わなかったとしても、愛することは自由だ。僕たちは、やっぱり間に合っているのかもしれない。


最後に、津野が最後に残した曲、「pray」の歌詞を添えて、文を締めたいと思う。津野米咲の旅が、赤い公園の旅が、どうか美しくありますように。


≪I pray for you それじゃ、またね
 今日もどこかで笑ってるかな
 君の旅が どうか美しくありますように≫






*文章中では赤い公園メンバーの皆さんの敬称は略させていただきました。
*””内の発言はインタビュー記事から引用しています。
*≪≫内は赤い公園の楽曲の歌詞を引用しています。


この作品は、「音楽文」の2021年3月・月間賞で入賞した山梨県・聴く鼬さん(16歳)による作品です。


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