神聖かまってちゃんが10年目に繰り出すカウンター - 10th Album『児童カルテ』に寄せて

2020年の幕開けに、デビュー10周年を迎えた神聖かまってちゃんが、10枚目となるオリジナルアルバム『児童カルテ』をリリースした。 

この『児童カルテ』は、神聖かまってちゃんの最新作にして最高傑作だ、と私は思う。その理由はいくつかあるのだが、そのうちのひとつは、の子の歌詞がこれまでの作品の中で一番研ぎ澄まされている、ということだ。このアルバムを聴いて、の子がこの10年の間に作詞家として進化を遂げてきたこと、また、の子が作詞家として今一番冴え渡っていることが分かった。

では、『児童カルテ』の歌詞がそこまで研ぎ澄まされ、進化を遂げることができたのはなぜだろうか。それは、の子が現代社会を見る際の視界の解像度を格段に上げたからでなないかと、私は考える。

例えば1曲目の『るるちゃんの自殺配信』。
実際にあった事件をモチーフにしたこの曲では、るるちゃんの抱える3つの絶望が描かれている。それは、「友達ができない」という学校の中での絶望と、「飛び交うデータ」というネットの中の絶望と、「中央線に飛びこんで/傍迷惑な奴だと言われて」という街と社会の中の絶望だ。つまり、少女が「学校」というリアルでローカルな場所にも、「ネット」というバーチャルで匿名な場所にも、「街」「社会」というこれから飛び込んでいくであろう未来の場所にも、全方向に対して絶望していることがきっちり描かれている。特に「中央線に飛びこんで/傍迷惑な奴だと言われて」という歌詞における、この社会の歪みの切り取り方がすごいと思った。人身事故が起こると、定時通りに会社に行くことを妨げられたと、「傍迷惑だと」憤る人たち。その仕事に一人の命と比べて、線路に飛び込んだ人が抱え込んだ気持ちと比べて、一体どれだけの価値があるのか知らないが、とにかくこの社会はそうやって憤る人たちが一定数いる社会なのだ。その事実だけでだいぶ落ちていくテンションを、の子はきれいに切り取る。過剰な感傷は入れずに、それゆえに鮮やかに切り取られたそれを見た私たちは、歪んでいることが当たり前になってしまった社会の歪みを、まっさらな気持ちで今もう一度知ることになる。

2曲目の『毎日がニュース』の歌詞も、切れ味がすごい。
女子高生が主人公のこの曲では、「救いなきこの世界をみんな裁いて/大好きが腐ってく成虫期」というフレーズで「成長期」を「成虫期」と言い換えており、本来なら何かを好きな気持ちを育てていく時期に、身体的な成長とは反比例するかのように腐っていってしまう精神を生々しく描写している。そして、現代の女子高生がこういった精神状態になってしまう背景も、の子は鋭く描く。

「道義的な事を言っていいね稼いで/加工前の世界から可愛くなる/1盛れる角度 報道してくんで」

未成年でも知識やモラルがなくてもSNSのアカウントさえ作れば1人1人が全員メディアになれる時代に、一人の女子高生がキャラ作りもキャッチコピーを書くのも撮影も編集も加工も全部自分でやって自分で報道していく。このサビのフレーズからは、そんな10代の日常が目に浮かぶ。だが、これに続く2番のAメロでは、そこまでしてメディアになったところでその結果は「コメ欄クソったれのパラダイス」で「主人公になれやしない社会」なのだと、非情な現実が矢継ぎ早に歌われる。さらに、「毎日がニュースばっかりご近所さんは/指先を伝ってグロくなる」というフレーズは、表向きは善良な隣人がネットニュースをスクロールしていくたびに誰かを叩きたくなっていく様を表していると思うのだが、そう考えると、女子高生のコメ欄を荒らしているのは善良な隣人なのかもしれないということにも思い当たる。このように、一人の女子高生の精神が腐っていく背景を、の子は実に詳細に鋭く歌詞に落とし込んでいる。

それから、「主人公になれやしない社会さ」の後に続く「曰く不可解と無念に散る」という歌詞が何よりも圧巻だ。それまでの女子高生の口語から急に文語になることで、私たちはこれが一人の女子高生の問題ではなく、この社会の闇なのだということを見せつけられる。これは彼女のアカウントの中だけの問題ではない、私たち全員が認識しなければならない「不可解」と「無念」だと知るのだ。

また、『児童カルテ』では、現代社会に対してだけではなく、「夏」という季節の描き方においても、解像度を上げている。これまでも、神聖かまってちゃんが歌う夏の曲は、『23才の夏休み』に始まり『フロントメモリー』『熱いハートがそうさせないよ』など名曲揃いであった。しかし『児童カルテ』に収録されている『ディレイ』という夏の曲は、これまでの数々の夏の曲よりも、さらに鮮やかで洗練されている。

例えば、『ディレイ』の1番のAメロは「朝涼む光へ/エフェクトかけていく」という歌詞なのだが、まずここでは、夏の日にまだ涼しい朝の光からだんだん日差しが強くなる様が「エフェクトかけていく」という言葉で表現される。次に2番のAメロは「頭からディストーション/景色はスローモーション/扇風機ぐーたら浴びていくんだ」という歌詞で、昼の強い日差しを頭に浴びてクラクラして歪んでいる(ディストーション)様が描かれる。この辺りで、「ディレイ」や「ディストーション」というのは、エフェクター、エフェクト(加工)していくもののことを広く言っているんだろうなということに気づく。そう考えて聴いてみると、Bメロの「水色へと着替えていく」からサビの「一瞬の眩しい青へ駆ける」に向けては、色にもエフェクトがかかっていることが分かる。水色から青へと濃く変化しているのだ。さらにサビでは「夏の感情は強がり」「ディレイしてくんだこんな日々」と歌われる。つまり、の子はこの曲で、夏の日差しも、夏の色も、夏の身体も、夏の感情も、夏の日々も、全て「エフェクト」という観点から描いている。よって『ディレイ』という曲の歌詞は、これまでの神聖かまってちゃんが歌ってきた、「夏」や「夏休み」と自分の感情の共鳴あるいは対比といったものだけにとどまらない、まるで俳句のような様式美を備えた、洗練された歌詞になっているのだ。


では、の子が『児童カルテ』の歌詞において、現代社会に対しても季節に対しても、ここまで徹底的に解像度を上げたのはなぜだろう。

その答えは、神聖かまってちゃんが結成当初から貫いてきたカウンター精神の中にあるのではないかと、私は考える。の子は、神聖かまってちゃんがデビュー10周年を迎えた今もカウンターであり続けようとしているからこそ、歌詞の解像度を上げているのではないだろうか。

10年以上前に神聖かまってちゃんが登場した頃、彼らは2つの意味でカウンターだった。
ひとつは、既存のメディアに対するカウンターだ。神聖かまってちゃんは、テレビやラジオや雑誌というよりは、自分たちでインターネットを駆使して配信をすることでバンドの名前を売っていった。まさに『毎日がニュース』に描かれる1人1メディアの先駆者だったのだ。
もうひとつは、既存のバンドとリスナーの関係に対するカウンターだ。インターネットによる配信は、バンドとリスナーの間に第三者を介在させない。の子の団地の部屋とリスナーの寝室の間にあるのはPCとインターネット回線だけだ。その配信で、の子はリスナーのコメントをほぼ全て読み上げリアクションしていった。そうやって神聖かまってちゃんとリスナーはたくさんの時間と体験を共有して、リスナーは家にいながら神聖かまってちゃんからたくさんの初めての楽しさや驚きを受け取ってきたし、神聖かまってちゃんは配信でリスナーからの投げ銭により収益も得てきた。2010年前後の日本において、音楽家とリスナーの関係に革命を起こしたのは、「神聖かまってちゃん」と、音源をzipファイルで直接リスナーに販売した「まつきあゆむ」だった。

ところが、この神聖かまってちゃんの2つの意味におけるカウンターは、当初注目はされたし、ファンや一部の音楽好きにはかけがえのないものをもたらしたが、世間一般に対して決まったかといえばそうではなかった。の子が外配信をして怒られたり、テレビカメラになるとを貼り付けたことだって、世間の多くの人にとっては「一過性の過激なバンドがなんかしている」くらいの印象で、なんとなく片付けられてしまったように思う。神聖かまってちゃんが2010年代の初めに、このインターネットの時代に完璧なまでのカウンターを繰り出したにも関わらず、2010年代の海外のラップミュージシャンがインターネットによって巨大資本の傘下に入ることなく個人で大成功を収めたような価値観の転覆は、日本では起こらなかった。そして、2020年1月、そんな配信の先駆者である神聖かまってちゃんから、経済的な理由でベースのちばぎんが脱退したというのは、日本におけるカウンターカルチャーの限界を見たという気分になった。の子という天才がインターネットを駆使しても、もはやここまでなのかと思わされた。

ただ、それでも、の子はこの10年間、手をかえ品をかえ、カウンターであろうとし続けたのだと思う。そしてデビュー10周目にして10作品目の『児童カルテ』では、の子は歌詞の解像度を上げるという方法で、カウンターであろうとしたのだ。というのは、「歌詞の解像度を上げる」ということは、同調圧力に満ちた、硬直化した社会に対する唯一のカウンターになり得るからだ。あなたたちはどうか知らないけれど、私はこういう風に社会を見ています、と示すこと。そのために、自分が見ている世界を徹底的に詳細に描写すること。それによって、自分がカウンターの視点を持っているという事実を記録しておくこと。カウンターがうまく決まらない社会になんとか対峙して、そんな社会で生きていくためには、これしか方法がないのだろう。つまり、の子は「神聖かまってちゃんはカウンターである」ということを証明するために、解像度を上げ続けているのだと思う。

だから、これからの問題は、もはや私たちの受容の仕方にかかっていると言っていいだろう。
この先、神聖かまってちゃんのカウンターが綺麗に決まって価値の転覆が起こるかどうかは、受け手と社会の側の問題なのだ。

実はこの「受容」ということに関しても、の子は『児童カルテ』の中で歌っている。
それは『ゲーム実況してる女の子』という曲だ。
この曲の主人公は「ゲーム実況してる女の子」ではなく「ゲーム実況してる女の子の配信を見ているおじさん」だ。つまり、配信の受け手だ。この曲の中で、おじさんは「大人になるたびに劣化してく/陰キャラおじさん」と説明されており、おじさんにとって配信している女の子は「僕の天使なのさ」と歌われている。だから、一聴すると冴えない地味なおじさんが画面の向こうの女の子のおかげで日々をやり過ごしているというような曲に聴こえる。でも実は、「再生回数100ちょっと/ポッと出の配信者」である女の子のゲーム実況を成立させているのは、このおじさんでもある。だって「再生回数100ちょっと」なんて、有名配信者にはほど遠い、まさにカウンター的存在だからだ。そして女の子とおじさんの関係は、「それはまるで死ぬ前の走馬灯/召喚魔法でホワッと」というフレーズの「ホワッと」という言葉のイメージそのもののように、吹けば飛ぶような儚いものだ。どちらかが配信をやめるか配信を見るのをやめたら、それで終わりだ。ずっと配信を続けてきたの子は、それを知っている。だから、この曲の主体をあくまでもこのおじさんにすることで、「受容」する側がいて初めて成立するカウンターをそれとなく歌っているのではないかと思う。

しかし、『ゲーム実況してる女の子』で描かれている受容は、あくまでも個人と個人に関するものだ。この受容についての問題でもっと厄介なのは「社会」とか「世論」といったものだろう。
例えば、『るるちゃんの自殺配信』で歌われているような、何かショッキングな事件、センセーショナルな事件が起こったとき、本当は社会全体でその原因を考え、もうそんな悲しいことが起きないようにじっくり対策を立てなければならない。それなのに、なぜかこの社会は、それらの事件を、特殊な一個人が起こした特異な事件として、一過性のものにしてしまう。議論もなければ、有効な対策も生まれない。そしてまた同じようなことが繰り返される。いや、もっとひどいことが起きる。それでも多くの人は自分に問題はない、あるいは自分に関係はないと考える。自分の受容の仕方の浅はかさには目を向けることもなく。

の子はきっと今日も曲と歌詞をつくっている。GoProで夜空の星を撮るみたいに、ひたすら社会に対する解像度を上げながら。では、果たして私たちは、受容する側としての解像度を上げることができるだろうか。それとも繰り出されるカウンターをまたしてもぼんやりと見過ごしてしまうのだろうか。いつの日か、神聖かまってちゃんと私たちと社会の解像度が一致して、綺麗に決まるカウンターを見届けることができたらいいのになと思う。バカみたいに神聖かまってちゃんが売れて、ちばぎんが「辞めなければよかったな」と笑う未来が来たらいいのになと思う。


この作品は、「音楽文」の2020年4月・月間賞で最優秀賞を受賞した神奈川県・daizuさん(36歳)による作品です。


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