秋山黄色の火燃え尽きるまで - ゴミステーションブルースという曲が持つ力

秋山黄色のアルバム『FIZZY POP SYNDROME』の中に「ゴミステーションブルース」という曲がある。このアルバムの中で1番古い曲だ。

〈行け 不燃ゴミ〉
〈俺以外が 俺を燃やせるのか〉
〈俺はゴミじゃない〉

自分を不燃ゴミに例え、当時自分のやりたいことを周りの人から批判されたときのやるせ無さまた夢を追い人への応援ソングだと思っている。そんなこの曲が、一鬼一遊TOUR Lv.2のZepp Tokyo公演を機に別物の曲へと変わった。
抜粋した歌詞を少しだけ頭の片隅に置き、ライブでの想いを語らせて下さい。

3月10日1年半ぶりに秋山黄色が放つエネルギーを体感した。ライブ自体は1年ぶり。1年の間で、カラカラの植物になるような感覚で過ごしてきた私にこの日のライブで一気に養分と水分と上質な土を得た、パワフルな植物へ生まれ変わらせてくれた。

殆どの曲を音源通りに歌わず、“今“この歌い方で歌いたいからと言わんばかりの本能的なステージを作り上げる。音源よりもワンテンポ遅らせて歌ってみたり、強弱をつけてみたり、高音で聴かせてみたり、荒々しくしてみたり。間奏を長めにアレンジしたり、時には上質に仕上げてきたり。“今“この瞬間を生きてるんだ。自分の思いを歌詞に言葉にグッと乗せ熱いエネルギーをくれるライブなのだ。

ライブでの秋山黄色をアニメのキャラクターで例えると、こち亀の本田速人巡査のようだ。
ラジオやMCを聴くとゆるくて面白いその中に隠れてる優しい一面も見せる。弾き語りをすると宝箱を開けたような世界観を生み出す。SNSを見れば、可愛い顔文字を使ったり顔がほころぶ様な文脈で日常を共有してくる。

だがバンドメンバーとステージとギターこの三拍子が揃った瞬間、彼の中に灯されている火が大爆発する。火薬を爆発するかのように自分自身を燃やし、持ってる熱量とエネルギーをステージの上に存分に放つのだ。そして、オーディエンスもそれを体感し自分の中の火を燃やす。互いに燃やし合う、燃焼ライブなのだ。

ライブを終えその日のライブを思い出すたびに、“燃やした“という言葉を思い浮かぶ。
「ゴミステーションブルース」が頭に浮かんだ。

〈俺以外が 俺を燃やせるのか〉

の答えを返すように、彼はステージの上で自分自身を“燃やして“いたのだ。
全身全霊の魂を宿すようなパフォーマンスを見るたびに、「ゴミステーションブルース」を思い出す。この曲がずっと秋山黄色の原動力になっていたのではないかと思う。〈やりたい事を見つけてしまった〉あの日から、ずっと火は灯っていた。その火はいつしか不燃から可燃へと。この曲がその起爆剤的存在なのではないか、と今では思うようになった。

可燃してる今、誰かの光になっている。
秋山黄色の頭の中で巡る想いや経験を言葉に音楽にすることで、救われる人がいる。少なからず私もその中の1人だ。悩みや苦悩を“一旦忘れて、俺と一緒に逃げようぜ!“と言ってくれるそんな存在だ。誰もいない夜道を気が済むまで走り続けようぜ!ずっと付き合うから。と言ってくれる唯一の存在だ。
身体の中の汚れを少しでも滲ませてくれる。仮住まいから居場所を与えてくれる。
暗闇から手を差し伸べてくれる、一筋の光なのだ。
無限に広がる音楽というカルチャーの中で秋山黄色を見つけられて良かった。

〈有限の青春から 音と楽だけ盗み出した〉秋山黄色が、今後どのような音楽という名の地図を描いていくのだろうか。この冒険に秋山黄色という船はきっと誰も置いていかないし、そこの船員(ファン)もきっとずっとそばに居てくれる。そんな冒険の一員でずっと居たい。そしてもっともっとレベルアップ、アップデートし続ける姿を、その火が燃え尽きるまで船員とずっと見ていきたい。


この作品は、「音楽文」の2021年5月・月間賞で入賞した栃木県・すずきんぎょさん(22歳)による作品です。


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