被災地からBUMP OF CHICKENに愛を込めて - aurora ark 京セラドームに行かないことを選んだ日、行くことを選んだ日。

BUMP OF CHICKEN tour 2019 aurora ark 京セラドーム2days”9月11日、12日。
約半年前からその日を心待ちにしていた。
遡ること今年の4月。
その頃には自分で当選したチケットと、友達が当選してくれたチケットの二日分を幸運にも手にすることが出来た。
2日間とも友達と3人でこの二日間のライブを一緒に見ようと約束をしていたのだ。

夏のはじまり頃には早々に有休を取得し、新幹線とホテルの手配を済ませ、夏の終わる頃からずっとこの二日間に向けて気持ちを昂らせていた。
BUMP OF CHICKENのライブは私の生き甲斐であり、全てであり、何にも代えがたい時間だからだ。
ずっとずっと楽しみにしていた。



9月9日、深夜。
住んでいる街を台風が襲った。
この街に台風が来ることは毎年あれど、直撃しても、せいぜい半日休校になるだとか、半日電車が止まるだとか、海がおおしけになるだとか、その程度の被害しか経験したことがなかった。
それはこの街に住んで80年になる叔母も言っていたことだ。
誰しも、あんな大災害になるとは予想だにしていなかっただろう。

暴風雨は文字通り一晩中続いた。
今まで聴いたことのない囂々とした風の音、雨戸を激しく叩きつける雨の音、何か大きな物体(看板だとかトタンだとか)が壁にぶつかる音。
激しい雨音で全く眠れず、9月10日午前2時には停電した。
停電はすぐに復旧するだろうと思い、とりあえず懐中電灯をつけ、スマホアプリで天気情報のニュース動画を見ながら、激しい嵐にベッドの中で耐えていた。
そのうち、スマホの回線がぶつぶつと途切れ初め、午前6時頃には殆どネット回線は繋がらなくなってしまった。
それどころか電話がどこにもかけられなくなった。停電により携帯の電波が拾えなくなってしまったのだ。

外を見れば、昨日まで知っている街とは世界が変わっていた。
何処かから飛んできた、看板。トタン屋根。木の枝。木材。ゴミ箱。瓦。自転車。そんなものが道中に散乱していた。
辺り一帯は停電し、ゴーストタウンとはこの事だと思った。
幸い瓦屋根に被害はなかったが家の壁は吹き飛んでいたし、道に見たこともないほどの瓦礫が散乱していた為とても出勤できないと思ったが、
会社に連絡する手段すらなかった。 
だって、会社も停電しているんだから。
みんな、電波が通じないのだから。

一通り片付けた後、会社に行ってすぐ帰ったが、通勤経路も酷い有様だったし、どこにも信号がついておらず誰しもアイコンタクトで車を走らせている、不思議な光景が広がっていた。
携帯の基地局が生きている所があったのか、ところどころで電波が拾える場所があることに気付き、必要最低限の連絡だけ取った。

とりあえず家の被害はあるものの、全員無事。
食べるものも冷蔵庫のストックを調理して消費すればいい。
断水してるから水に困るけれど、そのうち給水が始まるだろう。
連絡がほぼ取れない状態なのは非常に困るけれど─停電さえ復旧すれば大丈夫。
市内どころか隣市もその隣市もほぼこういう時の思考回路はわりと前向きだ。
「大丈夫」である方向に頭を巡らせる、少なくとも10日の夕方頃はそう思っていた。

9日夜、電波の届く場所を探すと、海沿いのごくわずかなスポットで繋がることがわかった。
この時点で私は、9月11日、12日のライブに行くことを半分諦めていた。
半分諦めている事を完全に諦めさせることになるかもしれないな、と思いつつ念のため交通情報を確認すると、やはり千葉県からの脱出手段は限られているようだった。
高速道路は閉鎖され、電車は運行中止していた。
それでも県中部ならアクアラインを渡るかフェリーに乗れば、神奈川県に抜けられそうだ。
だが県南部の人は、県中部に行くことが出来るのかがわからない。
市街地でも倒木がひどいのに、下道を走って果たして県中部まで辿り着けるのだろうか。
通行止めの箇所を調べたが、リアルタイムかどうかもわからず、行ってみるしか手段はなさそうだ。


色々と思案してからツイッターを開くと、京セラドーム大阪で新登場するグッズ発売の案内が発表されていた。

新作グッズに湧く人々。
間近に迫ったライブに向けてワクワクするみんな。

星と月の明かりだけが輝く大停電した瓦礫だらけの街並み。
閉ざされた道路。
それらは、決して平行線にはならなかった。

涙が止まらなかった。

すっかり変わってしまった街の風景も、
楽しみにしていたライブに行けないことも、
電気も電波も水も交通手段も無いことも、
何もかも上手に飲み込めなくて泣くしかなかった。









9月10日。
停電は続いた。
会社に行っても停電していてできる業務もなく、早々に帰社することとなった。
街のスーパーが復旧したというニュースを聞いてとりあえずの食糧や水を買いに行ったり、給水が始まったと聞いて水を貰いに行ったり、近くに住む親戚の安否を確認したりした。
街を走っては、大破したコンビニ、屋根が落ちたガソリンスタンド、倒壊した倉庫、変な方向を向いた信号、市民によって集められた瓦礫の山…そんな悲惨な光景が目についた。
街並みの悲惨さとは裏腹に、人々の表情は疲労の色は見えど、暗くはなかった。
むしろ、こんな時だからこそ諦め顔で笑いながら被災状況を話したり、水をわけてくれたり、笑顔で道を譲ってくれたりする人が多かった。

それが心強くもあり、胸がしめつけられるようでもあった。



そして私はと言えば、10日の夜になっても、明日大阪に行く手段と覚悟は見つけることができなかった。
車で県南部からなんとか抜け出すことが出来るかもしれない、とはいえそうしたら丸三日間、停電した街に暮らす家族を置いていくことになる。
9日、10日は室内は35度を超える暑さであり、この暑さで年老いた親を残していくことは大いに躊躇われた。
(この時、電力会社の発表では今日明日には市内の電気が復旧するだろうという見込みも発表されていたが、あの停電戸数とこの倒れた電柱の量では絶対無理だろうと踏んでいた。それに、電力会社には最初からずっと尽力して頂いて心から感謝している)

家族みんなが「こっちはいいから、行ってきな」と言ってくれていた。
とてもありがたかったが、逆の立場でも私もそう言うだろうなとは思ったし、そのままの言葉を飲み込めなかった。




夜になり、決断した。

昨日まで
「(ライブに)行けるか行けないかわからない」
一緒に行く約束をしていた友達二人にはそう伝えていたけれど、
「明日は、行けない」
これを伝えた時は本当に悔しかった。

この二日間、音楽を聴く気にもならなかったけれど、いや、携帯の充電を温存したいから音楽聴いてなかったのもあるけれど─
でもBUMPには会いたかったな、会えたのにな、何もかも捨てて明日ライブに行くっていうこともできなくはなかったのにな、家族も行っていいよと言ってくれたのにな、会いに行かないという選択をしてしまったのは私だ。
「行く」と「行かない」を天秤にかけた時、行かないを決断したのはだれでもない自分だ。
生き甲斐で、生きる全部で、誰よりも大好きなBUMPに会いに行かないことを決めたのは自分だ。

頭の中にはBUMPの曲のあるフレーズが流れていた。

『手に入れる為に捨てたんだ
 揺らした天秤が掲げた方を
 そんなに勇敢な選択だ 
 いつまでも迷う事は無い

 その記憶と引き換えにして 僕らは
 振り返らないで 悔やまないで
 怖がらないで どうか 元気で』
─同じドアをくぐれたら

家族の安全と自分の安心を手に入れる為にひとつ捨てたんだ、
それを、捨てられた彼ら自身が『そんなに勇敢な選択だ』と言ってくれてるようだった。
『悔やまないで 怖がらないで どうか 元気で』
悔やんでも悔やみきれない夜、ずっとこの歌が頭から離れなかった。

それはとても、優しかった。





9月11日。
京セラドーム1日目。
おそらく多くの仲間たちが大阪に向かっていることだろう、そう思いながらも私は千葉県にいた。早くから予約していた新幹線の切符はゴミになった。

この日から3日間有休を取得していたので、朝から家の片づけや掃除(と言っても電気はないので、雑巾がけ)をした。
土鍋でお米を炊くのも慣れた。冷蔵庫の食材は、もう全部ダメだろうからゴミ袋に入れた。
幸い食糧は、心配して東京から来てくれた親族が2日分くらいを持ってきてくれた。
そして、明日には暑さは少しは和らぐであろうという予報と、高速道路が再開したというニュース。
僅かに光がさした。
明日、大阪に行く手段を考え始めた。
せめて二日目だけでも行けるものなら行きたい。
東京に行けば、あとは新幹線のチケットを買えばいいだけだから問題なく大阪まで行ける。
そして、東京に行く手段はできた。
あとは、二日間家を空けても大丈夫なようにしておくことだ。
最低限、食料、水、暑さ対策。電気がない以上この3つしかできないけど、やれるだけの準備は今日のうちにやっておこう、そう思った。

溜まった洗濯物は断水していなかった知り合いの家にお邪魔させてもらい、浴槽で全部手洗いした。
絞って干した時にはもう薄暗くなっていた。

“aurora ark”がもうすぐ始まるんだな─
行けなかった遠い大阪の空が、今この大停電している街並みの空と繋がっているんだと思うと不思議な気持ちだった。
会いたかったな、行きたかったな。

行かない決断をしたのは自分なのに、やっぱり一晩中後悔した。






9月12日。

私は東京駅に居た。
やるだけのことはやった、4食分のごはんは用意した、溜まった洗濯物は今お日様の下で乾くのを待っている、
幸いにもこれまでの猛暑もだいぶ和らいだ。万が一の時の気休めに保冷ジェルも用意した。
停電が復旧する時に備えてブレーカーも落とした。給水所で水も追加で貰ってきた。
家族も行ってこいと言ってくれた、東京に行く手段もできた。
半年前からずっと待ち遠しく思っていた二日間、そのうちの一日だけでも叶えたかった。

私は大阪行きの新幹線の切符を買った。
切符に書かれた“新大阪”の文字を見るだけで胸がきゅっとなった。
新幹線に乗る前に、自動販売機で水を買った。
自販機にお金を入れれば飲み物がでてくる─、そんな当たり前の事にも胸がちりちりと痛んだ。
稼働している自販機を見るのは四日ぶりだった。



大阪に行く道中の新幹線で、やっとの想いで聴くことができた最初のBUMPの曲は“花の名”だった。

『いつか 涙や笑顔を 忘れた時だけ 思い出して下さい
 迷わずひとつを 選んだ あなただけに 歌える唄がある
 僕だけに 聴こえる唄がある
 僕だけを 待っている人がいる
 あなただけに 会いたい人がいる』
─花の名

迷わず一つを選んだ今日、
迷って一つを選んだ昨日。
待っている人、会いたい人。
色々な歌詞が自分の中に染み込んできて、今度は、胸が苦しくなった。

BUMPの音楽はいつも日常の中にある。
歌詞の中の“僕”や“君”や“あなた”や“わたし”はその時その時によって、自分になったり、大切な誰かになったり、BUMP OF CHICKEN自身になったり、変幻自在に自分の人生の中の登場人物に入り込んでくる。
被災してからの日々を、藤くんの歌声はやわらかく、優しく、的確に、ゆっくりとほぐしてくれているようで、ああ、やっぱり彼らの唄が私の中にずっと生きてるんだなぁ、と思った。

日常生活が壊滅した中で、音楽は物理的には何も助けにはならない。
音楽でおなかいっぱいにはならないし、音楽があれば電気がなくても生きていけるわけじゃない。
でも音楽がなければ、少なくとも私にとってはBUMPの音楽がなければ生きていけないんだったなぁ、と思い出した。

そういえば、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2019 の時に藤くんはこう言っていた。

「音楽なんて衣食住のどれにもあてはまらない。生きていくのに必須じゃない。
 でも、君と僕は音楽がなければ生きていけない。そうだろ?」

その言葉は、正しかった。
その言葉以上に、自分と音楽の関係性を表せる言葉はないなとも思った。




京セラドームに着いたのは夕方に差し掛かる前の頃だった。
既にBUMPのグッズを身にまとったリスナーが会場を、会場近くの駅を、埋めつくしていた。
空を見上げると”aurora ark”の旗が靡いていた。
水色の空に凛として掲げられた、青と白のフラッグ。
昨日もここは、そうだったんだなと思うとやっぱり泣きそうになってしまった。
今日来られたことは昨日来られなかったことを明確に意識させることでもある。
二日間とも行かなければ、この風景を見ることも全くないから、昨日行かなかった痛みも感じないはずだった。

会場にかかる音楽、電光掲示板、グッズ売り場、自販機、コンビニ、ファーストフード…
自分が住んでいた街から全て失われた風景だった。
ここに居ていいのか、本当に正しかったのか逡巡した。
叶えたかったことを叶えたはずなのに、浮かんだのは罪悪感だった。
家には、地元には、これらの全てがない状態、どころかニュースすらろくに入らない世界で過ごしている人がいる。
昨日の「行かない」決断は正しく、今日の「行った」決断は間違っているのではないかとここまで来て思った。


程なくして、二日間一緒にライブを見る予定だった友達二人と合流することができた。
背中だけで私を見つけてくれて、抱き合って泣いた。
今回の被災で二人にも、沢山の人にも心配をかけてしまったし。
特に二人には「昨日のチケット1枚を無駄にさせてしまった」という申し訳なさがあった。
どんなに詫びても詫びきれる話でもないが、詫びられても困ることだろう。
ここに来るまでにそのうちの一人は「一日目、行かない決断をしたことを、誇りに思うよ」と言ってくれた。
その言葉を思い出しては胸の奥がじんわりと熱くなった。

でも、じめっとした話より、それより何より、今はなるべく笑顔でライブを楽しみたい。そう思った。
人とあってからずっと笑顔でいられたのは、やっぱり、人に触れられたことであたたかさが灯ったからだと思う。

会場に入ると、やっぱり会場内は電気がいっぱいで。
終始申し訳ない気持ちは消えることはなかった。
当たり前に楽しんでいたライブ会場を、こんな風に思うことはもう二度とないだろう。





aurora ark 京セラドーム二日目、開演。
このツアーに参加するのは4回目だったが、今までのどの公演とも聴こえ方が違った。
それが良いとか悪いとか、深く理解したとかそういうわけではないけれど、この三日間であいてしまった心の大きな穴を、藤くんの歌詞は丁寧に覗いて深さを確認して水を満たしていくようだった。


『考え過ぎじゃないよ そういう闇の中にいて
 勇気の眼差しで 次の足場を探しているだけ』
─Aurora

この歌詞で言えば、“そういう闇”は私にとっては文字通り闇、停電した街の中だった。
「そんな場所の中で、勇気の眼差しでどう動けばどこに行けるか、どうしたら行きたい場所に来られるのか、探してたじゃないか」
そう言ってくれているようだった。
ここに来たことすら罪悪感を感じていた私に、歌が答えをくれたのである。


『もう一度 もう一度 クレヨンで 好きなように
 もう一度 さあどうぞ 好きな色で 透明に
 もう一度 もう一度 クレヨンで この世界に
 もう一度 さあどうぞ 魔法に変えられる』
─Aurora

そして、もう一度モノクロだった街並みに色は戻るのだと、オーロラのような鮮やかな色彩があなたの世界に戻るんだよと、希望を灯してくれたようだった。
空から降ってくる銀テープを手に掴んだ時に、ああこれがBUMPの魔法なんだ、この感覚を掴みに行かなきゃと思ったんじゃないか、と思った。
気が付けば1曲目から号泣していた、しゃくりあげて泣きそうだったからタオルで口元を抑えていたら、一緒に見ていた友達が背中をさすってくれた。
過去にもライブ中に泣いたことは数あれど、ステージを見ることすら出来そうにないほどだったのは初めてだった。
演奏される曲ひとつひとつがそんな風に、自分の中に染み込んでいった。


『どうやったって戻れないのは一緒だよ
 じゃあこういう事を思っているのも一緒がいい
 肌を撫でた今の風が 底の抜けた空が あの日と似ているのに』
─話がしたいよ

その歌詞は、昨日の、いるはずだったこの会場にいられなかった私に届いた。
不幸な出来事の前にどうやったって戻れないのはみんなも一緒だった、みんなと一緒がよかった。
夏の夕方の少しだけ涼しい風も、底の抜けた空も、いつか見たライブ会場の空とよく似ていた。
ノスタルジックなメロディも生声ならではの感情的な歌声も、去年の今頃から何百回も聞き続けた歌詞も、その全部が時を遡って自分の現在から過去までを包みこんでくれた。


『夜を凌げば 太陽は昇るよ
 そうしたら必ず また夜になるけど』
─望遠のマーチ
望遠のマーチもこの三日間の停電の中にいた私に届いた。
真っ暗で電気もテレビもスマホもできない夜を凌いで、太陽が昇るのを待っていた、でも必ずまた真っ暗闇の夜になった。
それは覆せない普遍的なことだった、綺麗ごとや慰めごとで解決するものじゃなかった。
けれど、
『希望 絶望
 どれだけ待ったって 誰も迎えにこないじゃない いこう いこうよ』
─望遠のマーチ
と歌ってくれる。
闇があれば光があるように、絶望があれば希望がある。
迎えが来ないなら行こう、一緒に行こうよ、昨日の私をそうやって導いてくれているようだった。



アンコール曲は、非常に懐かしい曲目“バイバイサンキュー”。
まさか、という選曲だったけれど、ライブ中終始藤くんは何度も
「ありがとう」「終わるのが寂しい」という言葉を端々に零していた。
その想いにこの曲はまっすぐ直結するようで、後から思えば成程な、という選曲だったとも思う。


『僕の場所は どこなんだ
 遠くに行ったって 見つかるとは限んない
 ろくに笑顔も 作れないから うつむいて こっそり何度も 呟いてみる
 ひとりぼっちは怖くない』
─バイバイサンキュー

居場所を探してどこかへ行く僕、強がってひとりぼっちは怖くないと呪文のように唱える僕。
それが、終盤には
『僕の場所は ここなんだ
 おじいさんになったって 僕の場所は変わんない
 これから先 ひとりきりでも うん、大丈夫
 みんなはここで 見守っていて
 ひとりぼっちは怖くない』 
─バイバイサンキュー

と答えを見つける。
この曲自体の生い立ちは昔、藤くんが旅立つ先輩に送った曲だと言われているが、
この日に於いては終始、藤くん自身の唄であり、私自身の唄でもあった。
居場所を探して旅立った自分、居場所は自分の中にあったと悟った自分。
目指した目的地が正しいのか間違っているのか、迷っていた私自身にも答えを貰えた。


そんな濃密な時間が2時間半ほど流れ、藤くんのいつもの
「ありがとう、またね、ばいばい、おやすみ」
の言葉を最後にして、ライブは終演した。
あっという間だった。

あっという間だった割には、泣き過ぎて疲労感がすごかった。
そして、最後にスクリーンに映し出されたaurora arkの文字を見た時、やっぱり私は「ああ、すっごいいっぱい電気がここは使えてる」と思ったから、
完全に浮かれ切ってライブを見たわけではなさそうだった。
(念のため記載しておくと、電気を無駄使いするなという話ではない。
 この当たり前の明かりは当たり前ではなかった、という話だ)



この日、藤くんの歌う言葉ひとつひとつがこれまでになく響いた理由を自分なりに考えた結果、
変わってしまった街を見た衝撃、
真っ暗になってしまった世界、
昨日ここに来られなかった悔しさ、
今日ここに来てしまったことへの罪悪感、
これからの不安。
そういうものに対して答えをくれていたからだと思った。

そして、停電を経験した上でBUMPのライブに来たことで、今まで当たり前だと思っていたことのほとんど全てが当たり前じゃなかったということ、
光があれば闇があるということ、
辛い時に思ってくれる友達が遠くにいるということ、
日本の北から南まで千葉県の為に電力復旧の為に人々が救助に来てくれるということ。
そういう今まで気付けなかったことがわかった。




翌日、千葉に帰ると、引き続き街は停電していた。
勿論家も停電していた。帰ってすぐ、また土鍋でお米を炊いて夕飯にした。
懐中電灯だけが灯になった家で、思い出すのは昨日貰ったBUMPの唄のことだったり、メンバー四人の楽しそうな表情だったり、現地であえた友達のことだったりして、一昨日よりもずっと心が温かくなっていることに気付いた。


『もうきっと多分大丈夫
 どこが痛いか分かったからね
 自分で涙拾えたら いつか魔法に変えられる』
─Aurora

彼らが、大丈夫だと、そう教えてくれたから、
魔法に変えられると確信を与えてくれたから、
落ち着いてそれからの停電の日を過ごせた。


停電から1週間たつ頃、家に電気が戻ってきた。
電気が復旧したことひとつでさえ、私にとっては彼らが言っていた“魔法”のようだった。
誰かの努力で今まで当たり前に使っていた電気。
誰かの努力で整えられていた街。
誰かの努力で開通した道。
ひとつひとつ蘇っていく、魔法。

勿論、被災地はまだ被災地然としていて、被害は相当なものだ。
私にできることなんて微々たるものであろう。
だけれども、私個人もここで立ち止まらずに、あの日BUMPに貰った音楽を希望にして、自分の日々をこの地で大切に過ごしていきたいと思った。
そう思えたのはあの日、二日間行く予定だったはずの「二日目だけ」行くことを決断したからに他ならない。


この作品は、「音楽文」の2019年11月・月間賞で最優秀賞を受賞した千葉県・chonoさん(29歳)による作品です。


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