back numberを聴くと、なぜ私は泣いてしまうのか - 花束から読み解く現代の幸せと、彼らの「共感力」について

back number
彼らの魅力は?との問いに「歌詞」と答える人は多い。私も彼の描く世界に魅了された1人だ。back numberに出会う前、私は音楽は"音"のみを感覚で楽しむものとして、歌詞もわからない洋楽を聴いていた。
歌詞カードを見ながら、頭に歌詞を思い浮かべながら、歌に耳を傾け泣くという経験は、彼らが教えてくれた。

仕事で失敗した。企画がボツになった。好きな人が私を好きじゃないって気付いてしまった。メッセージで届いた別れの言葉、通話履歴や写真を全部消す、あの作業。
悲しい時や寂しい時にback numberを聴くことは必ず泣いてしまうので自傷行為にも近かったが、この習慣はずっと続けていた。なんでもないと思っていた日にback numberを聴いて泣いてしまった時は、お疲れ様、頑張ったね、辛かったね。と自分で自分を励ましてみる。

back numberを聴くとなぜ私は泣いてしまうのか。考えたけれど、どう言葉にしていいか分からなかった。「励まし」「背中を押す」「手を差し伸べる」…どれも違う気がした。いろいろ考えた結果、私が感じ、辿り着いた結論がこれだった。


「清水依与吏が、隣で泣いている。」



back numberの歌は文字で例えるなら小説よりエッセイを読んでいる気分だし、映像ならドキュメンタリーを観ている気分になる。

<あなたがここに帰ってきますように(fish)>
<もう少しここにいて/誰よりも幸せにしてあげて(幸せ)>
<愛してるなんて言われたって もう私は好きですらないので(ミラーボールとシンデレラ)>

どうしてここまで、想いを的確に言葉にできるのだろう。
まっすぐな想いだけではない。強がりやドロドロした嫉妬や狡さまで鮮明に描かれているその様は、腹を裂いて身体の中のじゅくじゅくとした傷や痛みを分け与えてくれるように思えた。他人の傷を見て痛そうだと顔をしかめてしまうような感覚で、私はじくじくと胸が痛む。

「頑張れ」「大丈夫」励ましの言葉はない。ひとつの歌の中で、主人公が立ち直るわけでもない。ただただ悲しみに明け暮れ、叶わぬ恋に想いを寄せ、泣いている。ひとりでいる時、私は無意識に「泣いてはいけない」と我慢しているのだと思う。でもそんな時に大の大人が隣で男泣きしてくれているから、つられて自分のことを思い出したり重ねたりなんかして泣いてしまうのだと気付いた。

俺は俺のことで勝手に泣いているから、君も勝手に泣けばいい。

少しぶっきらぼうだが、私が感じたのはそんなメッセージだった。

自分の涙や、想いや、葛藤や、人生を言葉に起こし、メロディーに乗せて形にする。何も知らないくせに、押し付けがましいとさえ考えてしまう励ましの言葉やアドバイスより、隣で泣いてくれるほうが、捻くれた私が前に進むためにはずっと効果的だった。

あなたが泣くから、私も勝手に泣いてるね。

清水依与吏が泣いている、back numberの「私」が泣いている。だから「ああ、私も泣いていいんだ」って思える。お互いにわんわん泣いた後に、ハンカチは貸してくれない。手も差し伸べてくれない。涙を拭って、立ち上がるのは、自分自身だ。

back numberの描く世界は、悲しい恋愛だけではない。幸せや喜びは、「カフェで聞く惚気話」のような、ゆっくりと流れる日曜の昼下がりのような、そんな感覚に近い。

彼らの代表曲とも言えるセカンドシングル「花束」。発売から5年が経過した今でも、沢山の人に愛され続けている。

「こんな風に想われたい」「こんな恋愛がしたい」と、憧れる人も多い。でも「この主人公、そんなにいい男か?」と言われると疑問に思う人は多いのではないか。

<どう思う?これから2人でやっていけると思う?>という彼女の質問には
<とりあえずは一緒にいてみようよ>なんて答えるし、<浮気しても言わないでよね>なんて釘を刺されている。

サビの<僕は何回だって何十回だって 君と抱き合って手を繋いでキスをして>という歌詞はいいことを言っていそうだが【一生連れ添うつもりの恋人に対しての愛情表現】としてはあまりにも少ないのではないか。何十回なんて、数ヶ月でとうに超えてしまうだろう。

でも、その「隙」こそが、彼らの"共感力"だ。

何万回の「愛してる」や、抱えきれないほどの薔薇やサプライズ、一生の愛を誓われる方が幸せのカタチとして分かりやすいだろう。しかし、いざそれが歌詞になってみると、いかんせん自分がそれを受ける姿が想像しにくい。現実味がないのだ。それに比べて、普段はちょっと手が出ないけど、頑張ったご褒美にコンビニで買ってしまう高級アイスクリームを、毛布にくるまって食べるあの瞬間のような、そんな幸せがあの歌だと思う。

「ちょっとダメなところもあるけど、そこも可愛いんだよ」なんてにやける、清水依与吏の惚気話。私もそれにつられて、にやけた顔で彼の好きなところなんかを話してしまうだろう。

「花束」はきっと、バブルでは売れなかった。世の中は不況で、就活は厳しくて、税金は高くて、年金は払っても払っても貰える気がしない。未来は真っ暗だ。どこかのお役所なんかが示す「一般的な家庭」と言われる【夫が正社員、妻が専業主婦、子供が2人】なんてモデルがもはや理想の家族像になっている今だからこそ。普通、いや少し不完全な「花束」こそが、人々に共感され憧れの的となる「幸せの形」なんだろう。
back numberの「幸せ」は背伸びして、実現してみたいキラキラした理想と、現実のちょうど真ん中にいる。手が届きそうで届かないその希望は、蜃気楼のように儚い。

彼らの音楽には歌詞以外にも共感できる隙がある。例えばback numberは、歌詞カードが不要なバンドと言っても過言ではない。噛み砕いた言葉は、ロック、いやJ-POPと比べてもとても聴きやすい。自分のことがじんわりと滲み出て、自分の感情や経験を重ねてしまう。隙と言うより、距離感だろうか。彼らの楽曲がBPM160で清水依与吏がシャウトしていたら、楽曲のインパクトが強すぎて自分の事なんて考えられなかった。

私は彼らの歌を聴くと、シャワーを浴びている時のように頭の中がクリアになる。そして、私の日常を掘り起こしていく。経験のしたことが無いことですらも、「ああ私がこんなことをしたらきっとこんな感じなんだろうな、こんな事を思うんだろうな」と予感させるのだ。同じものを好きな人は感性が似ていると言うが、彼らと私達も感性が似ているのだろう。

フィクションで描かれる人や出来事はどうしても脚色の上で魅力的になり、「こんなことあるわけない」「こんな人いるわけない」と感じることが多いが、back numberの「私」や「彼」は、どうしようもなく人間臭い。辛い経験をした時、「自分が世界一不幸だ」と考えてしまうことがある。しかし、back numberの「私」や「彼」も負けていない。どんなに相手を想っても叶わないことだってあるし、想われていても気持ちが離れてしまうこともある。辛いことだと分かっている関係に溺れてしまうこともある。生まれながらに持っているものの違いに苦しむこともある。そういった人には見せたくないところや、かっこ悪いと感じてしまう気持ちまで脚色せず、いやとことん不幸に描いていて、かっこつけないのだ。親近感にも近いものを感じる。あの曲で泣いていた彼女たちは、幸せになっているのだろうか。

彼らの等身大や人間臭さは自分とリンクし、その世界に吸い込まれて目の前に浮かんでくるようだった。その中では泣いてもいい、惚気てもいい、人を羨んでもいい、憎んでもいい、自分の気持ちに正直になっていい。彼らの歌は、私を主人公にしてくれる。彼らの歌を聴くと、なぜかたくさんの経験をしたような気になれる。

今日も私は、彼らの歌の中にいる。


この作品は、「音楽文」の2017年8月・月間賞で入賞したサキさん(22歳)による作品です。


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