Mr.Childrenはドラえもんで、その曲はひみつ道具だった。 - きっと誰もがのび太で、その誰もが誰かのドラえもんになれる。

突如として出現しとどまる事を知らない新型ウイルスを前に、あの日飛び上がらんばかりに喜び幸せを噛み締めながらスケジュールに書き込んだ3本のライブの予定はシャボン玉が音もなくはじけるようにあっけなく消え果て、私が映画館を涙で沈没させ多額の損害賠償請求をされる予定となっていた新作映画も先の見えない果てしない闇の向こうへと手ではなく上映を延ばされることになったが、どうやらCDという物体は屈しなかったらしい。


透明なフィルムに慎重にカッターナイフを沿わせ、フィルムを剥がし取り、その青空を開く。今の世の中の混沌とした状況とは真逆の穏やかすぎるにも程がある光景を一通りじっと眺め「今一番必要なのって穏やかさなのかもしれないな」なんてことを思いながら、その隙間を覗き込む。青空と同じ色をしたポケットは、あの猫型ロボットのそれそのもの。その中に見えたのは、青空に浮かぶ雲のように優しい色をあのドアに注ぎ、別れと出会いの季節に咲き誇りこのバンドのとあるメンバーの名前に忍び込んでいるあの花のように色付けたかのような・・・



粋だ、粋すぎる。



あまりの粋っぷりにもはや憤りすら覚えるレベルだ。誰だこんなことを考えたのは。今すぐ名乗り出てほしい。この世に存在するありとあらゆる賞をかき集めて勝手に授与したいのだけどそれは現実的に難しいので僭越ながら私から「さすがにこれは粋すぎて失神する人が出てくるレベルで賞」という何の役にも立たない架空かつあまりにも無意味な賞を授与させていただきたい。


Mr.Childrenがドラえもんの映画の主題歌を担当する」と聴いたその瞬間から嫌な予感はしていた。「これはとんでもないことが起こる気がする」という逆の意味での嫌な予感だ。どうやらそれはパッケージを開封したその瞬間に的中してしまったらしい。早過ぎやしないか。まだ何も聴いていないのに。それはまるであのポケットからあのドアを取り出す疑似体験。きっと、この音楽はあのドアのように私をどこへでも連れて行ってくれる。



あのドアに似たそれを青と白のポケットから取り出した瞬間、私は自分がドラえもんになった気すらした。



Mr.Childrenの真髄は「絶滅」と「再生」と「進化」を輪廻のように繰り返しては音楽という形無いもののダイナミズムを増幅させ続けることにあり、それはこの地球上に生命が誕生してから続いてきた営みそのものの体現であると言える。彼らは恐竜として深海に沈み一度絶滅したが、内側に恐竜としての核を携えたまま花となり生まれ変わった。恐竜は花の出現により絶滅したという説があるらしいが、《「何かが生まれ また何かが死んでいくんだ」》という言葉通り彼らはそうして己を己で絶滅させるようにして生まれ変わってきた。人は死んだら終わりというのは肉体的な話でしかない。精神的には何度でも死ぬことができ、そして何度でも再生しては進化していくことができる。終わらせることを恐れないこと、終わらせることでしか始まらない何かがそこにあることを彼らは表現し続けている。


また、恐竜は鳥類へ進化を遂げていったと考えると、「ミスチル現象」による活動休止を経て復帰後初めてのアルバムとしてリリースされた1999年発売のアルバムのジャケットにひそかに鳥がいたり、彼らがセルフプロデュースへ移行するという大きな転機を迎えた2015年あたりのツアーで「鳥」がフィーチャーされていたり、そのツアータイトルと同じタイトルの曲に《「いっそ飛べない鳥の羽なんか もがれちまえばいい」》なんてライティングがひそんでいたり、彼らの楽曲にやたら「鳥」が出てくることもなんとなく頷けるわけである。とはいえ2010年にリリースされたアルバムでは突然クジラになったり、彼らの姿は決して一つではない。「死を想え」という名がつけられたその花は、2015年にリリースされたアルバムに収録されている「進化論」という楽曲のMVの中で波瀾万丈に晒されながらも枯れることなく揺れ続け次の世代へと引き継がれている。花であったり、鳥であったり、クジラであったり、節目を迎える度に決して時代に迎合することなく核としての「恐竜」を秘めたまま時代に即した姿にその都度「絶滅」し「再生」し「進化」し分岐しては様々な姿を見せ続けてきた。そしてデビューから今日まで28年間、周年ツアーで「POPSAURUS」として恐竜の姿に戻り10年おきに牙をむき出しにしそのカウンター精神で時代に噛みついては音楽という営みを続けている。


そんな「恐竜」が「恐竜」をテーマにしたドラえもんの映画の主題歌を担当することになった。何の巡り合わせなのか、偶然なのか必然なのかはよくわからないがとにかく「ものすごいこと」なのである。これはもはや、コンビニで買ったあんぱんをかじったら中から1億円の小切手が出てくるくらい「ものすごい」「ありえない」「信じられない」ことなのである。



Birthdayからは「再生」、君と重ねたモノローグからは「輪廻」を感じた。



そよ風が頬を撫でていくような控えめで軽やかなイントロが鳴り響き「Birthday」が始まる。イントロの後、歌声と同じくらい前でバスドラムが鳴り始め驚いた。一定の速さで、ものすごく耳に近い場所で鳴り響くその音はまるで心臓の音であるかのように感じられた。このバンドが「再生」している最中の静かで大きな鼓動そのものに聴こえた。たまにものすごく緊張した時や焦った時に自分の心臓の鼓動が大きくなりすぎて自分の内側から聴こえてくるよう時の少し速めのそれそのものでもあり、また胎児の心音を外界から聴いているような感覚にも襲われた。自分の外側で鳴り響いているバスドラムの音が、自分の内側で鳴り響いている心臓の鼓動の音と共鳴しているのを感じた。完全なる新感覚だった。レコーディングをしたロンドンがすごいのか、マスタリングをしたニューヨークがすごいのか、ヘッドフォンを作ったSONYがすごいのか、Mr.Childrenがすごいのかよくわからなくなったがきっと全てがすごいのは間違いなくて、Mr.Childrenは今まさに「再生」の時を迎えているのだと確信した。


序盤はバスドラムの音がメインで他の楽器の音は控えめだが、徐々に楽器が増え音が折り重なっていき最終的には何重ものストリングスを携え壮大に雄大に草原を駆け抜けていく風のようなサウンドへと膨らんでいく。それはまるで1人の人間の人生という小さいけども壮大な旅の縮図であるかのように思えた。「僕なんかどうせ飛べない」と自信を持てず自分だけを見つめてはひたすら内省を繰り返すひとりぼっちの主人公が、仲間の存在により鼓舞され自分の外に目を向け「僕でも飛べるかもしれない」と徐々に自信を蓄えていき、最終的に自分だけではなく他の誰かを巻き込み共に大空へと飛んでいくような光景がありありと脳裏に浮かんだ。


序盤は「my」「my」「my」「my」とひたすらに自分自身の誕生を祝す。そして深い場所から外界へと上昇していくような、生命が発生しこの世に生まれ落ちるまでの様子を表現したような、まどろみがありどこか遠くから重なって聴こえてくるようなエフェクトがかかった音の間奏はまるで胎児が聴いている外界の音のようである。間奏の後アコースティックギター1本だけが産声をあげる静寂の中はじめて「your」という他人を表す人称代名詞が登場しその後はまた人生における様々な出会いのように様々な楽器の音が重なっていき「your」「my」「my」「your」と他者と自分を織り交ぜながら互いの誕生を祝い合いフィナーレを迎える。


子どもの頃はクラスメイト全員の誕生日を覚えていたが、大人になった今、会社の同僚の誕生日は知らない。他人の誕生日を真剣に覚えようとしなくなったのはいつからだろうか。「誕生日を祝ってくれる」ということそのものが、その人が自分の心の中を照らし続けてくれている大切な「炎」であるということなのかもしれないと思わされる。曲の最後に二回、大きな風がブワッと体全体を包んでから清々しく吹き抜けていく。それは「誰か」という「my」と「誰か」という「your」が一緒になって風を切り空を飛んでいる様子を思わせる。大人になった今でも誕生日を祝い合い一緒になってケーキのろうそくを「風」で吹き消すことができるような、その場にいなくとも「おめでとう」「ありがとう」と言い合っては一緒に1年ごとに新しいロウソクに火を灯してくれるような、自分にとって大切な人達の存在を噛み締める。歳を重ねるというのは、ケーキのロウソクが増えていくことそのものなのかもしれない。自分の心の中のロウソクは歳の数だけあって、それぞれのロウソクの火を見ればその時誕生日を祝ってくれた人たちの顔が浮かぶ。自分が10歳の時に灯した火に浮かんでいる人は今はもう自分の誕生日を祝ってくれないかもしれないけれど、ちゃんと自分の心の中に《消えない小さな炎》として残っているからそれでいいんだなぁなんて思わされる。


「君と重ねたモノローグ」の「モノローグ」というのは「独白」という意味で「演劇においてその場にいない相手に向かって言うセリフのこと」である。タイトル通り、様々な場所から目の前にいない相手に向かういくつもの想いが静かに折り重なっていく様は聴いていてなんとも心地いい。《こんなにも》や《いつまでも》がボーカルとコーラスでやまびこのように呼応しているのも多方面からの想いの重なりが垣間見えなんとも温かい気持ちになる。ドラえもんとのび太なのか、のび太とおばあちゃんなのか、Mr.Childrenとリスナーなのか、親子なのか、友人なのか。様々な場面や関係性にフィットするこの曲の心地よい柔軟性と伸縮性と抽象性に静かに圧倒される。想いが輪廻のように回り回って誰かから誰かへと引き継がれていき、のび太のような存在だった誰かが誰かにとってのドラえもんのような存在になっていく様子はこの混沌とした世の中に残された唯一の穏やかな希望であるとすら思える。


そして最後の長いアウトロは、曲の最後にあるからアウトロなのだけどどこかイントロのような、これから何かがはじまるような期待感と幸福感をもたらす。様々な楽器の音が重なり膨らみメロディが躍りながらも、楽器は徐々にフェードアウトしていき最終的にストリングスのみとなる。そして残されたそれがフェードアウトしていった時にまた新しいメロディがフェードインしてくる。何かが生まれはじまっては何かが終わりそしてまた何かがはじまるという輪廻のようなイメージが膨らむ。そしてディスクリピート再生をしているとこのアウトロの直後にまた「Birthday」が始まるわけだがそうして聴くと「Birthday」がどこか産声のように聴こえてきてその親和性がまた心地よい。



これらはまさにドラえもんで描かれているストーリーそのものでもあるのだが、それと同時にMr.Childrenのことでもあると思った。



きっと、桜井和寿はのび太だった。確かに彼は類まれな天性の才能を持っている「天才」なのだが、それと同時に「自分はろくでもない人間だ」ということをどこまでも自覚しているのではないかと思えるのだ。今回、ドラえもんの映画の主題歌を担当するにあたり発表したコメントにおいても「弱く情けない自分」と自分を卑下している。これだけの才能を抱え地位も名誉も名声も手に入れた人であることは間違いないのだけれど、それでもいつまでも自分のことが嫌いな人なんだろうなと薄々想像してしまうのである。


そんな彼にとってMr.Childrenのメンバーはそれぞれジャイアン・スネ夫・しずかちゃんのような存在だったのだと思う。一人では何もできない情けなく不器用なタイプの人間はのび太くらいで、他の3人は一人でも難なく生きていける器用なタイプの人間だ。これはMr.Childrenのメンバーにも通ずるものがある。のび太こと桜井和寿は以前のインタビューにて『まあ、4人で凄くバランスがとれてるところがあるから。だからもし僕がソロ・シンガーであったとしたら、この4人の役割を全部1人でやるんだろうかっていう。そしたらもう、ほんとにソロ・シンガーってツラいんだろうなって。』というような発言をしているし、実はメンバーの中で最も臆病で弱虫なのは桜井和寿であると思えるのだ。そしてジャイアン・スネ夫・しずかちゃんの3人がのび太の秘めたる真の力や才能を認めているという点は、ギター田原健一、ベース中川敬輔、ドラムス鈴木英哉が日頃から「桜井の才能を誰よりも信じているからそれを生かすことに徹した演奏をするよう意識している。」というようなことを公言している点にまた通ずるものがある。ジャイアンとスネ夫としずかちゃんはのび太の才能と力をどこまでも信じているし、田原健一と中川敬輔と鈴木英哉もきっとまた桜井和寿の才能と力をどこまでも信じている。


Mr.Childrenの楽曲はほぼ全て桜井和寿が作詞作曲を手掛けていて、それらに彼の人生や価値観そのものが投影されていることは間違いない。しかし、Mr.Childrenの実情は決してワンマンバンドなどではない。桜井和寿が個人的に作成した大層気に入ったデザインのTシャツを公式グッズにしようと提案した所、田原健一の鶴の一声で企画が頓挫したり、メンバー内での桜井和寿の立ち位置というのは絶対的なものでもなんでもなく、本人が『サポートのメンバーより立場弱いっすから、僕は。』と言い切るくらいもはや弱いのである。しかし桜井和寿は誰よりもメンバー3人を信頼し、そしてメンバー3人は桜井和寿の有り余る才能を最大限に引き出すため足りないものを絶妙に補い合いバランスを保とうとしてきた。だからこそMr.Childrenはここまで長く続いてきた。ハンバーグで言うと桜井和寿がひき肉で他のメンバーが卵と牛乳とパン粉と玉ねぎと塩コショウの役割を担っているのである。つなぎと味付けのないひき肉を焼いてもただのバラバラのひき肉でありまとまってジューシーなハンバーグにはなり得ないのだ。そうしてお互いがお互いの長所と短所を深く知り、近からず遠からず程よい距離感で補い合い高め合うことこそが友情であり、仲間であり、深い絆のようなものであると、それは誰かと誰かがお互いの長所を持ち寄り短所をカバーし合い最高の料理を作り上げるようなものなのだと、そう思えるのだ。



そんな4人が集まって組んだバンドはMr.Childrenという「ドラえもん」になった。



Mr.Childrenというのは、4人が組んだバンドでしかなくある意味ひとつの「虚像」であり「フィクション」である。もちろん、櫻井和寿や田原健一や中川敬輔や鈴木英哉は一人の人間という「実像」として間違いなく存在するが、Mr.Childrenというのは所詮「虚像」である。もっと言うと「桜井和寿」も。特に「Mr.Childrenの桜井和寿」というのは虚像の中の虚像であるという話を始めると長くなるのでここで強制的に終了したい。


つまり、ドラえもんも未来からやってきた猫型ロボットという設定ではあるがそれは現実には本来存在しない「虚像」ということではないかと思えるのだ。桜井和寿と田原健一と中川敬輔と鈴木英哉が補い合い高め合って生まれたのがMr.Childrenという虚像だとしたら、のび太とジャイアンとスネ夫としずかちゃんが補い合い高め合って生まれたのがドラえもんという虚像なのではないか。



そしてのび太にとってのドラえもんのひみつ道具は、私にとってのMr.Childrenの曲なのではと思える。



Mr.Childrenの曲は、ドラえもんのひみつ道具のように人々の元に届く。桜井和寿は以前のインタビューで『ミスターチルドレンというのは誰かの人生の、何かのひとコマの代用品で。悩んだ時の。代用品っていう言葉が合ってるかはわかんないけど・・・』と腑に落ちないような発言をしていたがきっと代用品と書いて「ひみつ道具」と読むのだと思う。Mr.Childrenの曲を受け取った人々はそれを剣にしたり盾にしたり傘にしたり防弾チョッキにしたり灯りにしたり道標にしたり薬にしたりして、自分一人では折れそうになる局面に立ち向かうことができる。それはドラえもんのひみつ道具を手に様々な問題に立ち向かうのび太そのものであると思える。


しかし、曲もひみつ道具も所詮は「虚像」である。のび太はタケコプターを頭につけて空を飛んでいるけど、それは本当に空を飛んでいるのだろうか。ただ、空を飛んでいる想像をしているだけかもしれないし、夢を見ているだけかもしれないし、空を飛んでいるということは何かのメタファーなのかもしれない。私だってMr.Childrenの曲を聴いていると空を飛んでいるかのような感覚に陥ることがある。そういう意味では私の中ではMr.Childrenの曲はタケコプターに値する。そのように、実像などどこにもないのである。それでも、そんな「虚像」にすがり頼ることで乗り越えられる何かがある。「虚像」にしか成し得ない何かがある。形のない「虚像」だからこそ、音楽にしか伝えられない何かがあると思うのだ。のび太はひみつ道具を使って難局を乗り越えているように思えるけど、それは実はひみつ道具という虚像があると思い込むことにより普段は出ない勇気ややる気や力が湧いてきて、結局ひみつ道具の力を借りずとも自分の力だけで乗り越えているんじゃないか?真の力をドラえもんが引き出してくれているだけではないのか?なんて思えるのである。



Mr.Childrenがドラえもんだとして、その曲というひみつ道具で日々困難を乗り越えているリスナー達もまた間違いなくのび太である。



私の周りだけの話かもしれないが、どうもミスチルに深く心惹かれてしまうような人間は老若男女問わず常に必要以上の悩みを抱えては自分に自信がもてず自分が嫌いな人間が多い気がする。もちろん例外もあるだろうが、少なくとも私はその通りだ。おそらく、特に深い悩みを抱えることもなく自分が大好きで自分に自信があって自分で何でも乗り越えていけるような人間はMr.Childrenという虚像に惹かれることはないような気がする。私もできることならば「ドラえも~~ん!!」と泣きついて助けてほしいし、何かを解決するのにできるだけ自分の労力を使いたくないし、自分で何か始めるよりも誰かがすることにただ乗っかっていたい。《無理とは知れどドラえもんが欲しいな》と歌い「ドラえもんは僕の人格形成に関わっている」と断言するようなドラえもんのヘビーユーザーであるのび太という桜井和寿が作った歌詞やメロディーに、のび太というリスナーが惹かれていきまたヘビーリスナーと化す。共通項のある人に自然と人は惹かれていくとすれば、これはもはや不可抗力ではないかと思えるのだ。



しかし、そんなリスナーというのび太は、桜井和寿がメンバーと共にMr.Childrenというドラえもんになれたのと同じく、誰かと補い合うことで誰かにとってのドラえもんになることができる。



ドラえもんに頼りきりだったのび太が恐竜にとっては力と勇気を与えてくれるドラえもん的存在になれるように、Mr.Childrenというドラえもんに頼りきりだったリスナーというのび太もきっと誰かにとっての「ドラえもん」のような存在になれる、この2曲がそう言ってくれている気がする。



Mr.Childrenは一貫して「変わらなきゃいけないのは自分自身」というメッセージを伝え続けてくれている。何度落ちても、何度こけても、また這い上がって立ち上がれるとまず自分を信じられる自分でありたいというマインドを音楽に乗せて届けてくれている。ドラえもんのストーリーにおいても、ひみつ道具に頼らずに己の力だけで越えて行かなければならない場面はのび太に訪れるし、私もMr.Childrenの曲が後ろ盾してくれているからとはいえ最終的に現実を乗り越えるのは剣も盾も傘も防弾チョッキも持たない丸裸の自分自身でしかない。最後に試されるのは自分自身だ。とはいえ、人間というのは自分のためだけにがんばるというのがなかなか難しい生き物でもある。そんな時、誰かのためになら力を発揮できることがある。誰かが誰かのことを想い、信じて、補い合うことで「ドラえもん」という虚像の力が生まれ何かが変わり動いていくとするのなら、私も誰かにとって頼りがいがあったり関わることで何らかの力や勇気が湧いてくるような「ドラえもん」のような存在になれたらいいなぁとふと思うのである。



きっと誰もがのび太で、その誰もが誰かのドラえもんになれる。



「ドラえもん」という国民的アニメと「Mr.Children」という国民的アーティストは見事に交差した。そしてその交差点に、このCDのあのポケットの中に、誰もが誰かのドラえもんになるためにどこへだって行ける「あのドア」を残していってくれたのかもしれない。ドラえもんはタケコプターで空を飛び、Mr.Childrenは鳥となり空を飛ぶ。まだ映画を観ていないのでわからないが、きっと恐竜たちも。そして自分も、そのドアをくぐればどこへでも飛んでいける気がする。



「生命」という人間にとっての大前提すら揺るがされ多くの人々が現実というリアルを生きることに血眼になっているこんな世界情勢において、真っ先に「フィクション」は排除される。ライブも新作の映画も、建物という「物理的」な場に人々が集まらなければ成り立たないものはシャボン玉のようにあっけなくはじけて消えた。しかし、音楽は形のない虚像だからこそどこへでも飛んでいける。音楽は「精神的」なものなのである。家の中だろうが、病院の中だろうが、毛布の中だろうが、どこにでも、一人一人に、その「心」に届くのだ。今までに受け取ったひみつ道具と、たった今受け取ったひみつ道具が私の「心」の存在を証明してくれている。



だからきっと、それさえあれば私はどこへだって行けるし、なんだってできる。



《閉ざされたドアの向こうに》待っている
《もっと素晴らしいはずの自分》を探しに行こう。





※《》内の歌詞は Mr.Children「Starting Over」「未完」「フラジャイル」「終わりなき旅」より引用
※『』内の発言は ロッキング・オン・ジャパン 1997年6月号,2002年5月号より引用


この作品は、「音楽文」の2020年4月・月間賞で入賞した兵庫県・けけでさん(28歳)による作品です。


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