Tame Impalaという体験、新時代の『Currents』。

 なんばHatchでのライブを観終え、僕は『Currents』を聴きながら春風のなでる道頓堀川に沿って歩いていた。何んだかすぐには帰りたくなかったし、なかなか出会うことのない静かな興奮をしばらく味わうことにした。川で乱反射する光やその明滅、都市の無機物を吹き抜ける夜風はいかにも僕をサイケデリックな気分に引き込んで今日の回想を助けた(Tame Impala、それは不思議な体験だった)。そのうちに、イヤホンから耳に流れ込む「Let It Happen」がまた別の酩酊を連れてきた――。
 
「起こるがままに」。このケヴィン・パーカーの言葉に従って〈流れ〉の中に身を投じてみる。いまTame Impalaを語るには、まずはこの曲からじゃないと始まらないだろう。そこには新しい音楽体験があり、その肥沃な音像は今後のシーンの羅針盤になるかの如く、新世代の音楽がどういうものかを何よりも明確に打ち出すことに成功した。
 
 と、ここで本稿の動機を少し話しておきたい。
 様々なメディアにおいて、アルバム『Currents』やその楽曲群に関する文章は、前作『Lonerism』との比較や、それらをロック史においてどう位置づけるかを考察したものが多い。その大体が60'sサイケ、ダンスミュージック、エレクトロポップなどへのジャンル分けを主眼とし、内容主体のレビューはあまりないように思える。もちろん、知識も何もないド素人の僕は曲を聴いて感じたことだけで勝負するしかないのだが、この曲そのもののテクスト論的なレビューは、今現在のエレクトロ・ミュージック界隈(今やそれは全世界のメインストリームと言える!)の様相をありありと映す鏡にもなるだろう。
 また、それ以上に僕にはTame Impalaのいちファンとして、このバンドをもっと知ってもらいたいという思いがある。彼らは、グラミーにノミネートされ、今年のグラストンベリーでは準ヘッドライナーを務めるなど、今や名実ともに世界最高峰のサイケデリック・ロックバンドである。僕は彼らのことを〈現代の王道〉とまで言ってしまいたい。もしそんなことを言ったら、眉を顰めるだろうか。サイケは時に難解で退屈な印象を抱かれるから。もしくは単に知らないから。特に日本の洋楽市場においてはそれが顕著だ(詳しくは後述)。「TSUT〇YAにも並んでない王道があるか」と言うかもしれない。確かに世界での評価と日本での知名度は必ずしも比例しているわけではないようだ。サマソニやフジロックで来日を重ねているものの、僕が行った大阪公演はここ数年でTame Impalaが唯一ソールド・アウト出来なかった公演だった。また、そういう状況の中で特に外国人ファンの多さが目立った。オーストラリアの人たちは肩を組むには大きすぎる。もっと背丈の合う仲間が欲しいのだ。
 上記の問題を踏まえたうえではっきり宣言しておくが、Tame Impalaは僕らジャパニーズにとっても間違いなく開かれた存在である。プロのライター諸氏が60'sサイケの後継という単純極まりない位置づけを振り払おうと苦心されているように、彼らはひとつのポップ・ミュージックであり、今の日本の洋楽シーンを確実に捉えうる魅力を備えている。『Currents』はそれを示してくれた。ここで彼らについて、素人の僕が書く意義は大きいと信じている。
 
 さて、そのための足掛かりという意味でもこの曲「Let It Happen」は本稿のリードトラックとして機能するだろう。もしよければ、これを読んでくれているあなたも一緒に聴いてみてほしい。出来ればいつもよりイヤホンの音量を少し上げ、目も瞑って。
 冒頭、エレクトロニックな音の波は明瞭なドラムスとともに勢いよく打ち寄せて、やがてケヴィンの柔らかなハイトーンボイスと絡み合う。一旦くぐもってしまうドラムにはケヴィンの個人的な感傷が乗り移ったようで、ジゥゥと機械的なサウンドはその印象を助長する。“All this running around/Trying to cover my shadow”(あちこち駆けずり回っては、自分の影を隠してしまおうとしてるんだ)。不安や迷いが、行ったり来たりしている、そんな音像だ。リリックとサウンドメイキングがここまで一致しているのは、彼が楽曲制作のほぼすべての過程を一手に担っているからこそ出来たことだろう。彼の心情が至る所で看取される。だが、あくまでこの曲の主役は“シンセサイザーとドラムスの有機的なドラマ”であり、それは中盤に差し掛かって波から“渦”へ、成長していく。ここがこの曲の一番の聴きどころだ。それはキャッチ―でダンサブルなシンセのリフから始まるが、これは伏線だと言っても良い。そこからさらにバラエティ豊かなサウンドの渦が次々に展開されていく。ケヴィンが言及していたように音数は必要最低限でありながら、その一つ一つにもわずかなフェイクを加えたりと細かな工夫がなされ、決して飽きさせない作りになっている。その過程はきわめてシームレスで刺激的だ。本当に楽しいと思う。ここまで十分に僕らの耳を喜ばせておいて、徐々に温まってきたビートサウンドの盛り上がりや次の展開への期待感が最高点に達したところで、ついに、先のリフが再び姿を現す。曲に没入した者にだけ得られる“爆発”だ。途方もない達成感だ。なんという快感だろうか! ここまで来ると僕はいつも決まってニヤけてしまう。興奮、あるいは彼の才能に対する驚嘆のあまり、時にはへへっと笑ってしまう(こういう経験はないだろうか? きっとあるはずだ。ない訳がない。僕はヤバくない)。これはまさに構成の妙、ステレオを駆使した音像の編成に脳は完全にトリップしてしまう。あとは曲がフェードアウトするまでグルーヴィーなギターに身を任せておけばよい。“Let it happen. It's gonna feel so good”だ。
 8分近くあるこの曲だが、全く長いとは感じない。むしろ構造的な達成を求めた結果、なるべくしてなったという印象が強く、その均整は芸術的だとさえ思う。押し寄せる音の流れには、誰が逆らうことができるだろう。次々と起こる劇的な展開に身を任せているうちに、食器を洗いながら、洗濯物を干しながら、人知れず踊っている自分がいる(だから、ヤバくない)。

 すこし真面目な話をすると、ここで明らかになるのはこの曲の持つ強烈な“身体性”だ。耳から入ったサウンドが脳まで浸透し、音楽と一体になったと錯覚するほどの没入感や、無意識のうちに身体が音に同期してしまう感覚、こうした自らの意志では如何ともし難い、〈全的な体験〉こそが、僕たちリスナーにとっての無上の喜びではないだろうか。
 それなのに、歌モノ中心・サビ至上主義の日本において、インストゥルメンタルやその系譜にある、メロディーよりはサウンドの豊かさ、そしてそれがビルドアップされていく過程などを聴かせる音楽は、やはりポップ・ミュージックに比べるととっつきにくい印象がある。そういうものは聴けば聴くほど興味深く、病みつきになるのだが、どこかパーソナルな性質があって、一人で聴くのが良い気もする。一方では近年、エレクトロニック・ミュージックが趨勢を極め、ColdplayThe 1975などはポップでキャッチ―なディスコサウンドを展開した。「Uptown Funk」は去年の大ヒットナンバーとなり、今年のサマソニではこの曲が始まるや否やほとんどすべての人が踊り沸いた。Aviciiに代表されるEDMはサウンドに合わせて身体を動かす快感だけで僕たちを果てしなく熱狂させた。KygoのようなポストAviciiがこれからもどんどん登場し、しばらくこの潮流は続くに違いない。総じて日本の洋楽は(邦ロックにもいえるだろうが)、“いかに踊れるか”がカギになっていると言って良いだろう。
“パーソナルな方法”と“スポーツ・ライクでシェアラブルなサウンド”。魔術師ケヴィン・パーカーはこの一見アンビバレントな二つの要素の、蜜の部分だけをバランスよく調合する。彼の音楽は、きわめて個人的な動機で作られているにもかかわらず、その表現方法は決して個人主義に陥ることなく、あらゆるジャンルの薫陶を受けた音は僕らまで確実に届いてくる。ケヴィンの目指した“ミニマルなサウンド”はそれをより説得力のある形で表現することに成功し、僕らを誘惑する。耳で味わい身体で感じる、そんなふうにして彼らが与えてくれるまったく新しい体験は、リスナーとしての僕らを音楽の至福に運んで行ってくれるのだ。つまり新たな世代の音楽とは、豊かで幅のあるエレクトロニック・ミュージックを駆使してあらゆる感覚に訴えかけ、静かな陶酔とダンスの二項対立を同時に可能にするような〈全的な体験〉を引き起す、そういう音楽だ。Tame Impalaは、その中でも特に、独自のサイケデリアとブルージーなバンドサウンドを融合させ、それをミニマルで渦のようなグルーヴ感あるポップ・ミュージックという形でさらに昇華させることによって、ほかのどんなバンドよりも理想的で刺激的な音を生み出した、稀有の存在だと言うべきだ。換言すれば、エレクトロニック・ミュージックがメインストリームである現代において、“どこまでもベーシックでどこまでもモダンなバンド”であると言えよう。もちろん個々人の好みはあろうが、今の日本の土壌を鑑みると、親和性は非常に高いのだ。ここでもう一度言おう、Tame Impalaは〈現代の王道〉であると!――余談ではあるが、先述のグラストンベリーにおいて「The Less I Know The Better」のプレイ中、ステージ袖ではThe Last Shadow Puppetsとして出演していたアレックス・ターナーとマイルズ・ケインが、それぞれがてんでバラバラに自分の世界にこもったふうにして、しかしとても気持ちよさそうに踊り合っていた。僕にはこのことがすべてを物語っているように思えてならない――。

 さあ、ここで本稿もループするように冒頭へ戻る。最後にまだ書かなければならないことが残っているからだ。そう、僕はTame Impalaのライブを観たのだ。ほかのどんなバンドよりも、日本の洋楽受容の文脈に即したバンドのライブを(これがフルハウスにならなかったのはまったく皮肉なことである!!)。これで最後になる。いよいよ開場だ。
 
 4月26日、約1500人のキャパを持つなんばHatchはスペースに空きがみられた。舞台上はスモークが立ち込め紫の照明がそれを照らしていた。開演までの時間、海外からの熱心なファンと彼らの魅力やお気に入りの曲を話し合った。そうして、オーストラリア人の男たちと「ケヴィーン!」とステージにむかって呼んでいると、出てきた。本物のケヴィン・パーカーだ、Tame Impalaだ! 早速「Let It Happen」が演奏される。ライブハウスという独特な空間において、バックの映像や光線は彼らのサイケデリックな存在感をより一層際立たせ、僕らはその世界に招待され、圧倒される。生で聴くこの曲は予想以上に僕らの身体を揺り動かし、僕らを興奮に酔わせた。少しの誇張もない。僕はさっき述べた魅力をその何倍もの純度で味わうことが出来たのだ。そりゃあ「へへっ」が出てしまっても仕方ないだろう。5曲ほどプレイした後、「Elephant」が演奏された。象の行軍のようなビートが立体的になって襲ってくる。ベースは重く響き、その上をケヴィンの声が滑っていく。間奏部分ではビルドアップを経ての爆発があり、「Let It Happen」の萌芽ともいえるものが見受けられた。「Yes I'm Changing」の夢幻的な幕切れを「The Less I Know The Better」のイントロが切り裂き会場は熱気に沸き上がる。イントロが流れた瞬間の歓喜。ライブでしか味わい得ないもっとも素晴らしい瞬間のひとつだ。ブルースやファンクの要素を消化したこのナンバーで、皆が踊った。この時間が永遠に続けばいいと思うのは、ライブに行くと誰もが思うことだろう。「Apocalypse Dreams」で一度、夢の終わりが告げられてしまった。が、やはりここで終わらないのがライブである。アンコールは彼らの代表曲「Feels Like We Only Go Backwards」だ。会場の一体感はここに極まって、全員でのシンガロングが起こった。見知らぬ人と、国籍を超えて、肩を組み合い、歌った。僕はこの時のことを一生忘れないだろう。「Don't Look Back In Anger」や「Creep」のような歴史的アンセムは〈大合唱〉を巻き起こす。Tame Impalaはそういう曲を持つバンドでもあるのだと、再認識させられた。最後に「New Person, Same Old Mistakes」で、すっかり心の通じ合った僕らは顔を見合わせ、ゆらりと踊った。本当に幸せな時間だった。
 
 ライブとは何よりも全的な音楽体験だ。目で見、耳で聴き、その音圧や空気感に触れては身体をクネらせたり飛び跳ねたりする。オーディエンスは一つになり、会場全体の一体感に包まれたとき、この上ない喜びを分かち合うことが出来る。その意味でTame Impalaという音楽は、どうしようもなく体験的なものだった。あれほどまでに踊れる音楽だとは、ライブだとは。ケヴィン・パーカー自身この言葉を異なる意味で使ったのだとしても、サイケであるがポップでもあるアルバム『Currents』は、時代の〈流れ〉を確実に捉え得た、そういうアルバムになった。原始的で動物的すぎる身体の反応は最も先進的な音楽によって要請されたということを、可笑しく思った。
 会場を後にした。もう、長くは書かない。僕はこの静かな興奮を大事に抱え、イヤホンを耳に押し込めた。


この作品は、第2回音楽文 ONGAKU-BUN大賞で入賞した後藤大介さん(19歳)による作品です。


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