いとおしい痛みと共に、これから。

 思い返せば中学時代から音楽を聴くという趣味に傾倒し始めて、15年以上が経っている。音楽的な専門知識も、幅広く色々なものを聴く視野の広さもほとんど持ち合わせていないが、好きになった音楽の全てに大なり小なり何らかの影響を与えられて、今の自分があるように思う。そんなひとりの音楽リスナーとしての人生の中で、最も大きな悲しみに直面したのが、2016年の秋だった。

 10月。BOOM BOOM SATELLITESの川島道行がこの世を去った。享年47歳。年下の私が言うのも何だが、あまりにも早すぎる死だった。その情報を目にして真っ先に思考を占めたのは、ただただ"いやだ"という感情ばかりだった。
 6月にリリースされた最後の作品『LAY YOUR HANDS ON ME』をもって、BOOM BOOM SATELLITESは活動を終了していた。理由は川島の病状の悪化だ。それを受けて、いつかは"その日"が来るのであろうという漠然とした気持ちは常に心のどこかにあった。けれどもそれは、覚悟と呼ぶには甘すぎたのかもしれない。だって、理屈では解っていても、聞き分けよくすんなりとそれを受け入れるなんて私にはできなかったのだ。いつかは来るかもしれない。でも、そんな日はずっと来なければいい。子供じみているが、本当にそう願っていた。だから現実にそれを突き付けられたところで、受け止めることなどできるはずもなかったのだ。活動終了の時点で、つまり今後もう二度とブンブンのライブを観ることも新しい作品に触れることも叶わないのだと宣言されたも同然なのに、この訃報を知って益々それを現実として認めるのが難しくなってしまった。私はひとり、通勤途中の駅で、電車で、街中で、途方に暮れた。あのふたりが再びステージに立つことは、ついに本当の意味で不可能になった。この世界のどこにも、もう川島道行はいない。それは5年前の同じ10月に、実の母親を亡くしたときに味わった喪失感とさほど大差のないものだった。

 私がBOOM BOOM SATELLITESに出会った頃には、既に彼らの音楽は川島道行のボーカルありきのものになっていた。時代によって巧みに音楽性を変化させてきた彼らについてそう詳細に語れるほどの知識も語彙もないけれど、ただその時にブンブンが鳴らしていた音が私の心を強く揺さぶった感覚だけは今も鮮やかに思い出せる。モノクロのアーティスト写真の彼らはまるで猛禽類みたいな鋭い眼差しだった。楽曲はいわゆる電子音が満載で、けれど決してありふれたチープなものになることなく、それどころか他に類を見ない緻密さで成り立っている。そしてその複雑な音の波の中枢部を凛と貫く川島の歌声。これほどの精巧な音楽をたったふたりの日本人が生み出しているなんてにわかには信じられなかったし、こんなに激しくも美しい音楽があったのかと、私は次第にブンブンの世界に魅了されていった。
 ブンブンの比類なき要素は音源だけに留まらず、それを生で体感できるライブにこそ顕著だった。ブンブンのライブは、今まで観てきたどんなバンドのそれとも違った。音も光も映像もメンバーの凛々しい立ち姿も、それを目撃する観客の歓声も表情も、何もかもがブンブンのライブにおいては唯一無二だった。ワンマンはもちろん、他のミュージシャンと共演する音楽フェスや対バン形式のイベントであろうと、ただブンブンがステージに立って最初の一音を鳴らすだけで、いとも簡単にその空間は成立してしまう。ともすれば無機質にも聞こえるかもしれないブンブンの音楽は、けれども確かにそこに居る全ての人間を巻き込んでしまう強い生命力と包容力があった。

 川島道行が他界して1ヶ月と少しが経過した11月の中頃。私は乾いた風の吹きすさぶ新木場STUDIO COASTに居た。ファンのために用意された彼のお別れ会に参加するために仕事の休みをずらして、そこへ足を運んだ。1時間ほど列に並んでようやく場内に入ると、すぐに大きな献花台を目の当たりにする。中央には穏やかな表情を浮かべた故人の遺影。目に涙を浮かべながら献花をし、手を合わせ静かに俯く多くの参列者。私はその空気に少し気圧されて、足が竦みそうになった。いくら認めたくなくても信じられなくても、やはりこれは現実に起こったことなのだと改めて痛感させられて、どうしようもない虚しさに襲われる。前の人に続いて花を捧げ、恐る恐る間近でその遺影を見上げる。写真の中の、物言わぬ優しい眼差し。アーティスト写真でのBOOM BOOM SATELLITESはいつだってクールで無表情でこちらを睨むような面差しですらあったけれど、ふたりでトークを交わすような場面ではそんな一面が嘘みたいに朗らかで、冗談を言い合っては度々私たちの笑いを誘ってくれたことをふと思い出す。もう、会えない。初めて実感らしい実感が湧いて、何物にも勝る寂しさで視界は白くぼやけ、胸がはち切れそうになった。
 献花台を後にして、メインホールの展示を順に見て回った。デビュー当時からのアーティスト写真や販促ポスター、使用していた機材、過去のリリース作品の現物展示、作詞の際の川島の些細なメモ書きに至るまで、そこにはBOOM BOOM SATELLITESのあらゆる軌跡が結集していた。天井からは無数のライブ写真のパネルが吊り下げて飾られていたし、ステージにはライブ映像をバックに実際のライブと同様の機材がセッティングされていた。私はそれらひとつひとつを、時間の許す限り丁寧に記憶に焼き付けていった。
 あまりに人が集まりすぎて、最後まで近くで見られない展示物もあった。それを熱心に見つめるひとりひとりにも、それぞれ異なるBOOM BOOM SATELLITESとの出会いがあったのだろう。そう想像したら、見えないから早くどいてくれよ、なんて気持ちは湧いてこなかった。大勢の人たちが、川島道行に、中野雅之に、BOOM BOOM SATELLITESに「ありがとう」や「お疲れさま」を言いに来たのだ。その時間を妨げる権利は誰にもなかったし、誰一人そんなつまらない苛立ちは感じていなかっただろう。
 「お体に気をつけて」と、私はその帰りに出口で来場者を見送ってくれた中野に伝えた。彼はとても落ち着いた低い声で「はい」と短く、けれどもゆっくりと丁寧に返事をしてくれた。

『音楽を奏でる事。聴いてくれる人を感じて、繋がろうとして、もがいていたのでした。いつも聴いてくれてありがとう。繋がってくれてありがとう。僕達は幸せ者です。』

 その日来場者に中野から手渡しされたポストカードに綴られているメッセージを今一度、ゆっくりと胸の内で反芻する。そうか、BOOM BOOM SATELLITESは幸せだったのか。川島道行というひとりのミュージシャンは、幾度も再発する病魔に最後まで臆することなく立ち向かい続けた。余命宣告を受けても尚、音楽制作に魂を燃やし続けた。その歌に、命を注いだ。それはきっと身近で見守っていた人にとって、何より本人にとっても、私たちの想像も及ばぬ壮絶さだったことだろう。だが、そうやって生き抜いたことを、彼自身はきっと"幸せ"だったと今も思っているのだろう。並大抵の精神力では成し遂げられないことだと思うが、彼にはそれこそがひとつの"幸せ"だったのだろう。それならば、ブンブンに出会えた私たちもそれに負けないくらい幸せ者だ。ブンブンと同じ時代を生きられたことはかけがえのない幸運だったと、私は今、心底感じている。

『ようやく不自由な身体から解放されて、今頃は世界中を飛び回っているのではないかと想像しています。悲劇ではなく人生のゴールとハッピーエンドを手に入れた瞬間でした。』

 川島道行の訃報と共に、バンドの公式ウェブサイトに掲載された中野のメッセージの一部だ。最初に読んだときはまだ放心状態で、その存外ポジティブな文面に頭がついていかなかったのが正直なところだ。ただ、何事にもいつかは終わりがくるけれど、その最期をこんなにも妥協のない形で迎えられた人間というのはきっとそうそういないだろう。だからこれは彼らにとって「悲劇ではない」のだ。

『2016年は深く記憶に刻まれる大切な年になりました。多くの人に悲しい思いをさせてしまったかもしれませんが、これは僕と川島道行の門出です。これからも僕たちBOOM BOOM SATELLITESと川島道行を忘れないでくださいね。』

 2016年の大晦日に、中野はTwitterでそう発信した。やはり「門出」という未来を匂わせる言葉を用いているのがとても印象に残る。川島と人生の大半を一緒に過ごしてきたという彼の悲しみや喪失感というのは、あまり表に出さないだけで、きっと私たちのそれとは次元の違うものだったのではないかと思う。そんな彼が誰よりも前を向いているその姿勢は、とても眩しくて雄々しく、心強い。BOOM BOOM SATELLITESを愛したひとりのファンとして、私もそんな生き様に敬意を表さなければならない。

 あまりにも大きすぎた悲しみと寂しさを、けれども決して忘れたりごまかしたりすることなく、このいとおしい痛みをそっと胸の奥底にしまいこんで、私はまた、心の赴くままに音楽プレーヤーの再生ボタンを押す。

 そうやって何度も、何度でも、私たちはBOOM BOOM SATELLITESと川島道行に会いにいくことができる。


この作品は、第3回音楽文 ONGAKU-BUN大賞で入賞した東京都・蒼井さん(29歳)による作品です。


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