この文章を書いているのは2020年4月25日。
現在世界的に猛威を振るう新型コロナウイルスによる緊急事態宣言で、学校の休校、店舗の営業自粛、企業の在宅勤務やテレワーク等により、街は閑散としている。
僕らは何度目かの「この二週間が山場」を迎えており、見えない敵に対する終わりの見えない戦いへの不安や焦り、怒りや悲しみで疲弊する毎日を過ごしている。
〝あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ…〟
これは1998年にリリースされた、スガ シカオ作詞提供によるSMAP初のミリオンヒット曲「夜空ノムコウ」の一節である。3年後の2001年にはスガ本人もセルフカバーしている。今ふと、頭の中にこの歌が浮かんできた。
緊急事態宣言が出された日が「あのころ」だとしたら、今僕らが立っている場所も「あのころの未来」という事になる。政府はとりあえずのゴールを2020年5月6日に定めた。理想としていたような未来に、僕らは近づけているのだろうか。それとも結局何も出来ず、何も変わらず、いつの間にかあのころの未来を通り過ぎているだけなのだろうか。
今一度、「あれからのぼくたち」を振り返ってみる。
〝あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…〟
〝全てが思うほど うまくはいかないみたいだ
このままどこまでも 日々は続いていくのかなぁ…〟
「現在は過去の未来」
当たり前の事ではあるが、このような表現を歌詞として用いたものはそれまでにはなかった。探せばあるかもしれないが、少なくともヒットチャートの上位にランクインするような流行歌には見当たらなかった。現にそれ以降、同じ概念で表現された歌が増えてきたような気がする。
別にこの表現が革新的な発明だったわけではない。目から鱗だっただけだ。
スガ シカオが紡ぎ出す歌詞には、誰もが心のどこかに抱いてはいるが、上手く言葉に出来ない心情や、あるいは言葉にするほどでもないと思っていた些細な感情を揺り起こす作用がある。何かをピンポイントで言い当てられたかのような、ゾクっとする表現が非常に多い。夜空ノムコウに関しても、そこで描かれている未来に対する漠然とした不安のようなものが、聴く者それぞれの〝心のやらかい場所〟をしめつけた事によって、時代と呼応するように響く名曲へと昇華されていったのではないだろうか。
スガ シカオは決して綺麗事を言わない。人間のダメな部分、汚い部分も包み隠さず歌にしてくるし、抗いようのない運命のようなものも、これでもかというほど突きつけてくる。要するに、ポップミュージックというフィールドを主戦場とし、夢や希望を歌う事を暗黙の了解とされがちな存在が届ける歌としては、いささかエグ過ぎるのだ。その表現方法はストレートであったり、オブラートに包んだ言い方だったり、曲によって様々ではあるが、そのエグさがリアリティを生み、ある種の独特な説得力をこの人の歌に持たせている。
僕らは今、新型コロナウイルスと戦う日々の中で、綺麗事も精神論も通用しないエグい日常を過ごしている。これまでいろんな声が聴こえてきた。
《不要不急の外出はしないでくれ》《不要不急ってどれ?》
《密閉・密集・密接の3密を避けてくれ》《じゃあ、そうならない場所なら行ってもいいんだね?》
《休業してくれ》《じゃあ補償金出してよ》《出せません》《じゃあ出来ません。生活かかってるんで》
《生活に必要なものを扱う業種は、逆にお仕事続けてください》《いやいや、感染怖いんですけど》
《スーパーでレジ打ってます。お客さんが買い占めによる長蛇の列で完全に3密なんですけど?》
《ドラッグストアの店員です。マスクが買えないと知ったお客様から暴言を吐かれました》
《俺は長距離トラックの運転手やってます。先日、東京まで荷物運んで帰ってきたら、おたくのお子さんは入学式に出ないでくださいって学校から言われました》
《医療従事者です。次々倒れて減っていく同僚たち。次々運び込まれてくる新たな感染者たち。人手が足りません。これで医療崩壊には至らずなんとか踏みとどまってるなんて、どの口が言ってます?》
《最低7割、極力8割、人との接触を減らしてください》《ところで俺は今、一体何割減出来てる?それとも全く出来ていない?》
《緊急事態宣言っていつまで続くの?》《皆さんの頑張り次第ですね》
《最初からもっと、本気だせばよかったんじゃない?お互いに…》
結局のところ、極力人と会わずに、給料も減らずに生活が成り立つのは政治家だけという事になった。そんな人達が考えた施策など、一体誰のためのものなのだろう。「現在は過去の未来」だという事を踏まえて考えると、これは政府の判断力とリーダーシップのなさ、そして耳の痛い話ではあるが、僕も含めた国民の危機感のなさが招いた「あのころの未来」ではないか。
スガ シカオに話を戻そうと思う。
彼は「世界を変えよう」とか「夢を信じて」とか、いわゆるロック的な大言壮語を決して吐かない。本人もまた、自分が「ロックミュージシャンではない」事に自覚的である。歌詞で表現される世界や景色はいつだってミニマムで、自分の手が届き、見渡せる範囲内での出来事が描かれている。だから自分自身に重ね合わせて共感する事が出来るわけだが、だからこそ逆に実感してしまうのは、「奇跡なんて容易く起きない」という現実でもある。
スガシカオの歌の中には、世界を変えるなんて大それた事など出来ない、スーパーマンになんてなれない「その他大多数」の一般人のささやかな暮らしが描かれている事が多い。主人公は大概の場合ネガティブで、だらしなくて、卑屈で、現状に不満を抱えてこれじゃダメだと思ってはいるが、そこから抜け出す努力は特にしない。
ただその一方で、今よりほんの少しマシな場所に踏み出すための小さな一歩が、最終的に救いのように描かれているものも実は結構多い。どうしようもない日常を生きる主人公が、ほんの少しだけ前向きなアクションを起こそうとして終わるのだ。そのアクションによって何かが変わったという結果は描かれていない場合がほとんどだが、それは「0」が「1」になる瞬間の輝きを描く事で、主人公の中に芽生えた明るい未来への「予感」、信じてやまない根拠なき「自信」が、せめて自分の手の届く、見渡せる範囲のミニマムな景色くらいなら変えられるのでは?と思ったという事を表しているのではないだろうか。
NHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の主題歌として広く知られる「Progress」についてもそう。冒頭の〝いまだ何一つ サマになっていやしない 相変わらず あの日のダメな ぼく〟が、最終的には〝あと一歩だけ、前に 進もう〟と、たどたどしくも小さな一歩を踏み出している。
「打倒コロナ!頑張ろう!」と言っても、残念ながら世の中そこまで一枚岩ではない。大きな敵に立ち向かうために、国という大きなものを動かさなければいけない事はわかっている。だが、それをやってのけるのは大変な事で、きっと誰も出来ない。
だけど時折「ちょっと大きなものを見過ぎてやしないか?」と思う事もある。もっとミニマムに、自分や、自分の家族、恋人や友人を新型コロナウイルスの感染から守ろうとする小さな配慮くらいなら、ちょっとした意識の改革で可能ではないだろうか。そう「自分の手の届く、見渡せる範囲の景色くらいなら変えられるのでは?」とささやかな一歩を踏み出す、スガ シカオの歌の中の主人公のように。
他人を動かす事は難しい。でも自分が動く事は簡単だ。集団とは、蓋を開けてみれば個人の集合体だ。自分という個人を変える事を全員がすれば、自然と集団は変わっているものだ。とはいえその答えも、これから先の未来が現在になったとき、今という過去を振り返ってわかる事ではあるのだが。
さて、現時点でのスガ シカオの最新作に当たる、2019年発表のアルバムの中の一曲「遠い夜明け」にこんな一節がある。
〝歩き出した道は デコボコで遠く
明日にどうしても 踏み出せない夜もある
だけどほんの小さな 希望を手に握って
みんな明日を 遠い夜明けを待つんだ いつだって〟
そう、今僕らは「新型コロナウイルス終息」という、もしかしたら「遠い」かもしれない夜明けを待っている。いや、待つだけでは始まらない、目指してそれぞれが戦っている。
例えばこの文章が採用されて人目に触れる事になったとしても、どう急いでもそれは5月6日以降になるだろう。5月6日は緊急事態宣言の期間が解除される予定となっている日だ。
果たして予定どおり、この緊急事態宣言は解除されているのか、それとも延長されたのか、それは現時点ではわからない。だが僕はあえて今日、2020年4月25日に書き上げたものをそのまま投稿しようと思う。これは僕にとって日記のようなものだから。
スガ シカオファンの端くれとして、この文章を綺麗事で締めたくはない。そもそも僕自身も綺麗事が大嫌いだ。「明けない夜はない」とか、クソ喰らえだと思う。でも実際、夜って明けなかった事ないよね。
だから僕は、遠い夜明けを待つ。自分にやれる事をやりながら。
※〝 〟内は、スガ シカオ作詞「夜空ノムコウ」「Progress」「遠い夜明け」より抜粋
この作品は、「音楽文」の2020年6月・月間賞で入賞した千葉県・内山慎吾さん(37歳)による作品です。
コロナ禍でふと思う スガ シカオが描いた「現在は過去の未来」 - 〝あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ…〟
2020.06.13 18:00