今週の一枚 デヴィッド・バーン『アメリカン・ユートピア』

今週の一枚 デヴィッド・バーン『アメリカン・ユートピア』

デヴィッド・バーン
『アメリカン・ユートピア』
3月9日発売


デヴィッド・バーン、ソロとしては2004年『グロウン・バックワーズ』以来、なんと14年ぶりとなるのが今回の新作『アメリカン・ユートピア』だ。とはいえ、デヴィッドは2004年以降もほかのアーティストとのコラボレーション・アルバムは精力的に制作してきている。

2008年にリリースした旧友ブライアン・イーノとの『エヴリシング・ザット・ハプンズ・ウィル・ハプン・トゥデイ』は、ポップにしてエキセントリックな形でのデヴィッドとブライアンの実験的ゴスペル・アルバムとなり、高評価を得たし、ファットボーイ・スリムとのコラボレーションとなった2010年の『ヒア・ライズ・ラヴ』はイメルダ・マルコス元大統領夫人の半生を追った内容のダンス・ポップ・コンセプト・アルバムとなり、これはその後、ミュージカルとしても上演された。

そして、2012年にはセイント・ヴィンセントとのコラボレーションとなった前作『ラヴ・ディス・ジャイアント』をリリースし、デヴィッドはセイント・ヴィンセントとのツアーも決行。8人編成のホーン・セクションを軸とした、このアルバムに特化したライブを1年にわたって行った。

今回は5年ぶりのアルバムをリリースしたわけだが、なぜ今回はソロなのか。それはおそらくすでにアルバムのモチーフも方向性もすでにはっきりしていて、ほかのアーティストと模索や試行錯誤する必要性を感じない内容となっていたからだろう。もちろん、楽曲のパフォーマンスについてはこれまで通り、さまざまなアーティストの参加とコラボレーションは行われているが、これはあくまでもデヴィッドの頭の中でほぼ設計図が出来上がっていた作品なのだ。そして、そのテーマがそれこそタイトルの『アメリカン・ユートピア』である。

しかし、このアルバムに収録された楽曲のどこにもユートピアらしき光景や心象は描かれていない。むしろ絶望や焦燥の切実な心情がデヴィッドの巧みなユーモアでもって歌われている。つまり、これは「ユートピアといわれているが、実はディストピアな世界」を描いた作品で、その世界はどこなのかといえば、それはトランプ以降のアメリカということなのだ。

たとえば、冒頭を飾る“I Dance Like This”では、センチメンタルなピアノ・バラード風のヴァースでさまざまな消費活動に追われる人たちの姿が描かれる。すると一転してスラップ・ベースのアタックによるコーラスで「自分たちのこんな変な踊り方でも/踊るのはめちゃ気持ちいい」とたたみかけていく。
基本的にこの憂いに満ちたヴァースで消費者としての孤独が綴られ、それにサイキックなコーラスが続くというパターンが繰り返される曲になっていて、いかにもデヴィッドのエキセントリックなユーモアで構成された曲になっているのだが、要はこのコーラスそのものがEDMに対するデヴィッドのコメントになっている。

つまり、こんなに生きづらい世の中に生きていたら、誰だってEDMで発散しなければやってられないというのがここでデヴィッドで届けたいメッセージだ。そして、そんな生きづらい世界こそが、ユートピアとして祭り上げられることの多いアメリカの現在なのだというのがこのアルバムのテーマなのだ。


特筆すべきなのは、今作の収録曲はすべてコンパクトにかつポップに制作されている一方で、さまざまなファンクやビートの要素がどこまでも聴きやすく詰め込まれていることだろう。ここまで実験的でありながらわかりやすく、そのねじれた音と歌詞的世界を聴かせてくるという意味では、ほとんどトーキング・ヘッズ時代以来の出来になっている。つまり、今のデヴィッドには聴かせたいという意志があり、それは今のこの時代がデヴィッドに呼びかけている要求でもあるのだ。

そうした意味でこのアルバム中、デヴィッドの最高峰の作品となっているのが“This Is That”だろう。ミッドテンポの楽曲で、インダストリアルなビートに乗せて、淡々と日常における断絶の風景の数々が描かれ、コーラスではそうしたわだかまりが今まさに臨界点に達しているという心情が歌われている。すっと入ってくるメロディにしても、トーキング・ヘッズ時代を含めたデヴィッドのソングライティングの最高傑作のひとつに入る楽曲だと思う。


しかし、ある意味でデヴィッドならではの名曲となっているのが“Bullet”で、銃弾が人の肉体組織にめり込んでいくその過程をつぶさに歌ったもので、そのことによって銃規制を訴える、超絶的な変化球技である。一般的な銃撃被害を歌い上げるのではなく、人体に突入してからの銃弾の軌跡とその人物の記憶の断片をただ綴ることによって、拳銃を濫用されては一般市民はひとたまりもないことを淡々と訴える、デヴィッドの独特なレトリックとユーモアとヒューマニズムを打ち出した曲だ。もちろんこの曲がそれだけ説得力を持つのは、この秀逸なテックス・メックスをアレンジしたサウンドとビートに貫かれているからで、まさにデヴィッドの至芸の一曲というものになっている。


一部では、このアルバムについて女性コラボレーターが介在しなかったことが問題として指摘されもしたが、このアルバムについては着想と楽曲が出来上がった後、すぐに制作された作品で、そこまで配慮する余裕がなかったと考えるべきだろう。デヴィッドとしては、このアルバムはすぐにでも届けたいアルバムだったのだ。なぜかといえば、それは自分たちの現状を歌った作品であり、その現状は「アメリカン・ユートピア」とは程遠いものだということをいち早く伝えなければならなかったからなのだ。(高見展)
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