今週の一枚 ザ・リバティーンズ『リバティーンズ再臨』
2015.09.07 07:00
ザ・リバティーンズ
『リバティーンズ再臨』
9月11日(金)発売
なにしろ、あのザ・リバティーンズの新作なのである。
よく言えば伝説の、悪く言えばスキャンダラスな行状の数々と共に2000年代前半のUKシーンに大きな足跡を遺した彼らが、11年ぶりの新録新作と共にカムバックするとなれば、そこにセンセーショナルな興味がつきまとうのも無理はないだろう。
しかし『リバティーンズ再臨』は、その手のゴシップ・ニーズに応えるアルバムでは一切ない。
『リバティーンズ宣言』や『リバティーンズ革命』と比べると、一歩ずつ、驚くほど着実にリバティーンズとは何かを伝えてくるアルバムだ。
そもそも彼らは今回の再結成に際して新曲を書くつもりはなかったという。
ファンの方ならご存知のように、彼らには未発表曲が腐るほどあるし、未発表曲でありながらファンに愛され、親しまれているナンバーも数多く存在する(彼らが好き勝手ライヴで演りまくっていたからだ)。
だからそれらの曲を一枚にまとめて、再結成アルバムにしようとしていたらしい。
ある意味いかにもリバティーンズらしいいい加減なプランだが、そこで「新曲を作らないと再結成の意味がない」と反対したのはピートでもカールでもなく、ゲイリー(Dr)だったという。
もしゲイリーの提案がなく、単なる過去曲のコンパイル盤を再結成の証拠としてリリースしていたら、彼らの再結成は刹那と愛憎と薬にまみれたかつての彼らのムードを温くトレースした空疎なものになりさがっていたはずだ。
結果的に、彼らはもう一度リバティーンズに「なる」ために、未だかつてないほど真剣に曲作りと向き合い、いちから新曲を書き溜めていった。
本作は彼らにあるまじき客観性みたいなものすら感じさせるアルバムだが、それもまたリバティーンズがこの2015年にアクチュアリティを持ったリバティーンズとして立つために、自分たち自身を再研究・再発見していった賜物だろう。
先行シングルの“ガンガ・ディン”にしてもそうだったが、アルバムの前半はそうして再研究・再発見されたリバティーンズらしさのピース──びっくりするほどナイーヴでフォークロアなメロディ、酔いどれパブ・ロックの足取りに、ロンドン下町の喧噪を伝えるスカ・ビート等が丁寧にひとつずつ拾い集められていくセクションだ。
ワン・ダイレクションやエド・シーランを手掛け、ポップ系の仕事人と言っていいジェイク・ゴズリングをプロデューサーに迎えたことにも、彼らの「ちゃんとしたい」という意思が感じられる。
典型的な放任主義のミック・ジョーンズがプロデュースした過去2作品との差は歴然としていて、何が驚くって、どの曲も起承転結をちゃんと兼ね備えていること。
アウトロに向けて盛り上げていく演出なんて、かつての彼らのナンバーには考えられなかったことだ。
そうして集められたピースが組み立てられ、いよいよエンジン入れて走り出す後半の流れは本当にワクワクする。
まさに阿吽の呼吸、ピートとカールがスタンドマイクを奪い合いながら歌う様が目に浮かぶような“ハート・オブ・ザ・マター”、“ホラー・ショウ”を彷彿させるパンクス=リバティーンズの真骨頂“フューリー・オブ・チョンブリー”、そしてドハーティ&バラーのソングライティングの大復活を高らかに宣言するアンセム“グラスゴー・コーマ・スケール・ブルース”まで、私たちが待ち望んでいた彼らの復活、再結成の理想のかたちがここにはある。
ちなみに前述のように新たに書かれた新曲づくしとなった本作の中で、唯一の過去曲が“ユア・マイ・ウォータールー”だ。
これはかつてピートがカールに一方的にぶつけた妄執ラヴ・ソングだが、本作ではピートの独唱に寄り添うカールのピアノ(ヘタクソだが、それがいい)によって、確執を乗り越えた彼らの現在地を象徴する感動的なナンバーとなっている。
「明日のことなんて誰にもわからない」というのが、かつてのリバティーンズの大原則だった。
そんな彼らが、「もし明日があるとしたら、こんな明日であってほしい」という希望を初めて描いたのが、『リバティーンズ再臨』なのかもしれない。(粉川しの)