移籍後初となるアルバムで、前作『Fantôme』から1年9ヶ月ぶり。その間にも彼女は次々に楽曲を発表してその都度大きな話題を提供してきたけれども、今回は宇多田ヒカル名義で実に12年ぶりとなる全国ツアーも事前にアナウンスされていた。絶え間なく点と点が線を結ぶように、宇多田ヒカルのキャリアが更新されてゆくさまがまずは嬉しい。
「点と点が線を結ぶ」という意味では、新作『初恋』には昨年の“大空で抱きしめて”以降の配信5曲を含め7曲にタイアップが付いている。ポップカルチャーと広く強く結び付く宇多田作品の有り様を象徴する数字だが、これらの新作曲は同時に、それぞれアルバムのストーリーを担うピースとなっている。「初恋」というテーマが付与されることで、先に届けられてきた楽曲群も新しい表情を覗かせているのだ。
アルバムのブックレット写真の中の宇多田が、極めて自然体でプライベートな表情を見せていることからも窺えるように、『初恋』の宇多田はおそらく極めてプライベートな経験を自身の音楽へと落とし込んでいる。前作『Fantôme』は外部ミュージシャンとかつてないほど広く緊密な連携を取って生み出されたアルバムで、新作『初恋』もその作風を踏襲してはいるのだが、プライベートな歌の数々という意味では『Fantôme』を凌ぐところがある。
アルバムは、最終ナンバー“嫉妬されるべき人生”で、恋の出会いの瞬間へと立ち返っている。アルバムを聴き進めれば分かるように、この恋は既にひとつの幕を下ろした恋である。この世に生を受けた新しい命に寄せる強い思いを歌い込んだ“あなた”のほか、“Good Night”も幼い命との親密な関係を歌ったナンバーだろう。生前の母と過ごした時間と思しきナンバー“夕凪”もある。そうした経験と絡みあいながら、既に幕を下ろした恋の物語は「出会い」の瞬間へと向かってゆくのである。
ここで、宇多田ヒカルの意図する『初恋』というタイトルを考えてみる。日本語で綴られたアルバムタイトルは初だが、高橋智樹さんのこちらのコラム記事でも触れられていたように、宇多田のファーストアルバムのタイトル『First Love』を思い出させている。表題曲“初恋”の歌詞は《人間なら誰しも/当たり前に恋をするものだと/ずっと思っていた だけど/もしもあなたに出会わずにいたら/誰かにいつかこんな気持ちに/させられたとは思えない》と綴られていた。
つまり、宇多田ヒカルの『初恋』とは、「当たり前ではない、個人の特別な経験」のことなのである。大多数の人々が知っているものでありながら、どれひとつとして同じではありえないたった一度の奇跡的な経験を伝えるものが「初恋」という概念なのである。もともと、恋愛感情をつぶさに見つめ物語を紡ぐ作風は宇多田の得意とするところだが、彼女は新作でその「初恋」という概念に徹底してフォーカスすることにより、「個」と「ポップ」の二律背反を論理的に越えようとしたのである。これは凄いことだ。
ソロデビューを果たした小袋成彬が今作でも作曲やアレンジで参加し、UKの若手シンガー/ラッパーであるJevonは、“Too Proud featuring Jevon”で男女の思いのすれ違いをつぶさに描くように宇多田とエモーショナルなデュエットを繰り広げている。楽器演奏陣も世界中の名うてのセッションマンが揃い踏みとなっているが、配信曲にも参加していた名ドラマー/プロデューサーのクリス・デイヴは、12曲中8曲で屋台骨を担う活躍を見せた。
ストリングスアレンジを含めたバンドの演奏が奏でる、コンテンポラリーで深いグルーヴ。そしてプログラミングされたサウンドが効果的に用いられ、あの手この手で宇多田は「当たり前ではない、個人の特別な経験」を音像化している。個人の魂の振動をより明確に具現化し、経験を語りながら、渾身の力で「今、ここに生きている宇多田ヒカル」を肯定しているのだ。このアルバムは、「当たり前ではない、個人の特別な経験」を抱えて生きるすべての人々の胸に響くだろう。いま再び大勢の前でステージに立とうとしている、宇多田ヒカルの姿だ。(小池宏和)