米津玄師
『Bremen』
2015年10月7日
アルバム1曲目“アンビリーバーズ”のビートの躍動感とパワー。
これまでの米津玄師のサウンドからは想像もできないほど筋肉質で生命力に溢れている。
2曲目の“フローライト”も同様。
弾けるようなファンクビート、キラキラと煌めくアクセント。
7曲目“Undercover”の獰猛なエレクトロ。
8曲目“Neon Sign”のヘヴィーなギターリフ。
そしてラスト曲“Blue Jasmine”の壮大なドロップ(大サビのコーラス)。
すべてが確信的に鳴っている。
あのかすれたような不協和音をまとって揺れていた米津玄師のサウンドは、わずかにイントロやアウトロに名残のように微かに残っているだけだ。
なぜサウンドが変わったのか?
伝えたい事が変わったからだ。
それは歌詞に、よりはっきりと表現されている。
《全てを受け止めて一緒に笑おうか》(“アンビリーバーズ”)
《そうだ僕は生きているんだ/手垢にまみれていようと》(“再上映”)
《たとえ世界が変わらなくとも いつまでも叫ぶよ その答えを》(“再上映”)
《ここが地獄か天国か決めるのはそう/二人が選んだ道次第》(“Flowerwall”)
《もう僕は待ちきれない/あの光る方へ》(“ウィルオウィスプ”)
《この退屈をかみちぎり僕は/駆け抜けて会いに行くんだ》(“Undercover”)
《馬鹿にされたって愛を歌うよ/君とどこまでも行けるように》(“雨の街路に夜光蟲”)
《いつでも僕は確かめる 君を愛してると》(“Blue Jasmine”)
思いを抱きながらすれ違って生きる群像を描いてきた、これまでのドライフラワーのように正確で残酷でネガティヴな言葉表現ではなく、
自分を主語にして、意思を込め、血の通った「メッセージ」としてのポジティヴな言葉がこのアルバムには満ち溢れている。
しかもそれを歌う米津の歌声の力強さと言ったら。
米津玄師は新しい音楽をここから始めたのである。
誰かと繋がりたくて、でも誰とも(家族とすら)繋がれなかった20年間の凄絶な半生を今月号のJAPAN誌の2万字インタビューで米津は語ってくれた。
これまでの(正確には『Diorama』までの)米津の音楽は、そんな自分自身に正直な表現だった。
「人と人とはわかり合えない」という世界観が米津の全てで、その世界観をどこまでも精緻な音楽に転化したのが米津の作品だった。
だが、米津玄師はその世界観を「前景」として見据えた上で、その先にある風景に向かって歩き出そうとしている。
それがこのアルバムだ。
なぜそうしなければならなかったのか?
そうしないと、米津玄師は生きていけないからだ。
あらかじめある「前景」や、あらかじめ決められた「前提」を超えることにこそ表現の意味はある。
そして本物のアーティストにとって、表現と生きることは同じことだ。
アーティスト米津玄師は、このアルバムへと踏み出さなければ、生きていけなかったのだ。
このアルバムはこれまでのどのアルバムよりもポップで開かれている。
だが同時に、重く、力強い。
それはこの作品が一人のアーティストの「生」そのものだからだ。
新しいアーティストの誕生とも言える、祝福すべき素晴らしいアルバムだ。
(山崎洋一郎)