今週の一枚 椎名林檎『日出処』

今週の一枚 椎名林檎『日出処』

椎名林檎
『日出処』
11月5日発売



椎名林檎、ソロ5年半ぶりの新作アルバムは、まずタイトルとジャケット写真にびびった。
この物騒なご時世に、あえて言い放った『日出処』(ひいづるところ)。
しかも当の本人はマリリン・モンローばりの金髪ピンナップガール姿に扮して、背景に旭日旗調の陽光が指したハイパー和洋折衷モード。これこそ林檎らしいセンセーショナリズムの最新版だなあ、と思った。

しかし、である。アルバム1枚を通して聞いたら、もちろんそういうアルバムではない。
というか、もっともっと、これは本質的でヘヴィなものだ。
重いパンチをストレートでズドン、と喰らったような衝撃がある。
でも撃ち抜くような迷いのないパンチだから、後味がスウッと軽い。
非常にポップ。そして前向きなエネルギー。それが本質的なヘヴィさと完璧に同居しているのだ。ここには、新しい椎名林檎がいる。しかもそれは、彼女が見たことのないヴィジュアルに扮した時の驚きとは違っていて、ごくごく自然体のままの「ただの椎名林檎」がそこに立っているみたいに、生々しい肉体性を感じさせるパワフルさなのだ。

《わたしは今やただの女》 (“ありきたりな女”)

つまり、椎名林檎とは、もはや「ただの女」である――。
ひょっとすると、これが彼女の15年に及ぶキャリアの結論なのかもしれない。
「本当の」わたしではなくて、「ただの女」としてのわたし。
彼女はなぜ、今、そんなメッセージを歌おうと思ったのか。

1998年にデビューした椎名林檎は、その後の2枚のアルバム『無罪モラトリアム』『勝訴ストリップ』で日本のポップミュージックを変えた。
いや、正確に言えばアルバムはもちろんだけど、それはもはや「椎名林檎」という名前の巨大なセンセーションだった。青春とセクシュアリティの痛みやら憧れやら狂おしい感情ばかりがぎゅっと詰まった、昭和歌謡チックな漢字混じりの歌詞世界。それを支えるロックとポップが巧みにハイブリッドされたアレンジと、最高にキャッチーな歌メロ。そして、時に巻き舌でパワフルに、時に甘く繊細に歌い上げる、緩急自在のヴォーカリゼーション。彼女の大ブレイク以降、新人の女性のシンガーソングライターに出会う時はもう、その影響を全く感じさせないアーティストを探す方が大変になった。今だってそれは決して変わらないままだ。それくらい、彼女の登場は鮮烈だったし、決定的だった。

だが、2014年の今、『日出処』(ひいづるところ)をまさに聴こうとしている様々なリスナーにとってみれば、彼女のイメージはもっともっと多岐にわたっているだろう。ソロのサードアルバム『加爾基 精液 栗ノ花』以降の、ジャズの意匠やオーケストラを駆使した濃厚な音世界を紡ぎ出す椎名林檎。東京事変という類稀なメンバーが集ったロックバンドをリーダーとして率いる椎名林檎。そしてその局面ごとに、彼女はメイクやスタイリングを変えて変えて変えて……それこそ白塗りの花魁姿から金髪のマリリン・モンロー風ピンナップガール(今回のジャケットです)まで、およそ考えつく限りの「女」のイメージに扮してきた。なぜ、そんなことを彼女は続けてきたのか。それは、キャリアの最初の数年間であまりにも強く普及してしまったセルフイメージから、自分を解き放ち、進化させるための装置のようなものだったのだと思う。もう、そういうものがなくても、彼女は強く自由な自分で居続けることができる。このアルバム以降、きっと椎名林檎のプレゼンテーションはどんどんそういうものになっていくんじゃないかと思う。

《何も要らない私が今/本当に欲しいもの等/唯一つ、唯一つだけ》(“カーネーション”)

そして「ただの女」になった椎名林檎が歌う「唯一つ」欲しいものとは何か。
それはもはや、彼女だけが欲しがる、彼女だけに見えるような、何か特別なものではない。
「ただの女」であるということは、「すべての女」を等しく繋ぐような存在だということだ。すべての女たちの、本当に欲しいものを歌い続ける、そういう堂々たるポップスターとしての椎名林檎。彼女が自分自身をそう表現したことが、このアルバムの最大のメッセージなのだ。それって『日出処』というか、もはや「椎名林檎=太陽」としての、極めてプリミティブで最強の宣言じゃないか。(松村)
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